第二バチカンセクト (Vatican II Sect):第二バチカン後に現れた、カトリックの予言と聖書に預言された偽りの教会を示す。この偽りのセクトは、この本がかなり詳しく証明しているように、異端や背教、言語道断のスキャンダルがはびこっている。この本は、第二バチカンセクトがカトリック教会ではなく、大背教の時代における悪魔による、人々を道に惑わせるための偽りであることを証明している。
ノヴス・オルド・ミサ (Novus Ordo Missae):ラテン語で「ミサの新しい式次第」を表す。パウロ6世が1969年4月3日に公布した新しいミサのことを示す。
ノヴス・オルド教会 (Novus Ordo Church):この本では、基本的に「第二バチカンセクト」と同じ意味で用いられている。「第二バチカンセクト」とは、第二バチカンの偽りの教会、新しいミサ及びその信奉者のこと。
非カトリックの宗教は偽りである/カトリック教会の外に救いなし:カトリック教会は、唯一の真の宗教と唯一の真の神を教義として教えている。教会は、非カトリックの宗教は全て偽物であり、悪魔の物だと教えている。「カトリック教会の外に救いなし」(ラテン語:extra ecclesiam nulla salus)は、カトリック信仰の教義である。この教義は、教皇のエクス・カテドラの布告に7度定義された。
聖ロベルト・ベラルミーノ(Roberto Bellarmino)、ローマ教皇について(De Romano Pontifice) 2巻 30章:「明白な異端者になった教皇は自動的に(本質的に)教皇や長ではなくなる。同時に、自動的にキリスト教徒や教会の成員ではなくなるように。そのため、教会は彼を裁き懲らしめることができる。これは、古代の教父達の一致した教えである。彼らは、明白な異端者は自動的に全ての権威を失うと教えている。」
聖ロベルト・ベラルミーノ(Roberto Bellarmino)、ローマ教皇について(De Romano Pontifice) 2巻 30章:「原則は極めて確実である。カイェタン自身が認めているように(ib. c. 26)、非キリスト教徒は、形がどうであれ、教皇職を持つことができない。その理由は、自分が属していない団体を率いることは不可能であり、キリスト教徒ではない人は教会に属していない。聖キプリアヌス(lib. 4, epist. 2)、聖アタナシオス(Scr. 2 cont. Arian.)、聖アウグスティヌス(lib. De great. Christ. Cap. 20)、聖エウセビウス(contra Lucifer.)等がはっきり指摘したように、明白な異端者はキリスト教徒ではない。従って、明白な異端者が教皇職を持つことは不可能である。」
聖フランシスコ・サレジオ(Francesco di Sales)(17世紀)教会博士、カトリックの論争(The Catholic Controversy) 305-306頁:「彼[教皇]が明示的な異端者になれば、事実それ自体により教皇位から落ち、教会から分かれる・・・」[32]
聖アントニノ(Antoninus)(1459年):「教皇が異端者になった場合、その事実のみによって、他の宣告なしに、彼は教会から切り離されていることになる。切り落とされた首は、身体から分離されている限り、その身体の首として機能することができない。従って、異端により教会から分離されている教皇は、事実それ自体により教会の首位の座を失ってしまう。異端者でありながら教皇であり続けることはできない。なぜなら、異端者は教会の外にあるので、教会の鍵を有することはできない。」(神学大全、Actes de Vatican I.に引用された、Frond 出版)
聖ロベルト・ベラルミーノ(Roberto Bellarmino)、ローマ教皇について(De Romano Pontifice) 2巻 30章、 人を異端者だと判断することに関して:「…人は他人の心を見抜く義務がなくその能力も持たない。しかし、他人の外的行為を見て異端者だと分かった時、人はただ単に全くの異端者だと判断し、異端者として非難する。」[33]
[8]The Papal Encyclicals, Vol. 3 (1903-1939), p. 381.
[9]Decrees of the Ecumenical Councils, Sheed & Ward and Georgetown University Press, 1990, Vol. 1, p. 479.
[10] Von Pastor, History of the Popes, II, 346; quoted by Warren H. Carroll, A History of Christendom, Vol. 3 (TheGlory of Christendom), Front Royal, VA: Christendom Press, p. 571.
用語集・原則解説
Br.ミカエル・ダイモンド|Br.ペトロ・ダイモンド
ーこの用語集・原則解説は、この本によく出てくるテーマや原則、表現に詳しくない読者のための良い参考になることを期待しております。用語集を分かりやすくするために、ABC順ではなく、テーマ順に並べました。ー
教皇権・教皇職
(Papacy):聖ペトロの後継者である教皇の職。イエス・キリストは教皇制度を設立され(マタイ 16:18-20;ヨハネ 21:15-17)聖ペトロをキリスト教会の初代の長に定められた。ローマ司教は皆、聖ペトロの後継者であり、聖ペトロが使徒教会の中で持っていた同じ優位性を持っている。
教導権・教導職
(Magisterium):教皇が教皇権を持って、教義を宣言する時に行使される、カトリック教会の教導する権力。但し、真なる教皇の宣告は必ずしも教導職の教えではない。教皇が教導権を持って語る時は、(第一バチカン公会議によって定められた)幾つかの条件を満たす時のみ。教導職に忠実な人達は、歴史上全ての教皇が教義として教えた事や、カトリック教会の昔からの教えとして発明したこと全てに忠実である。
エクス・カテドラ
(Ex Cathedra):ラテン語で「座から」という意味。教皇が、不可謬的な判決の条件を満たす時に、聖ペトロの使徒座から、不可謬的に語ることを表す。キリストが教会に明かした教義を構成する故、改革不可能(不変)である教皇のエクス・カテドラの判決を否定することは異端であり、大罪である。
天啓/教義
(Divine Revelation/Dogma):イエス・キリストの真理は天啓の教えである。カトリック教会は、天啓の二つの源は聖書と聖伝(聖なる伝統)であり、聖書と聖伝の内容は、カトリック教会の教導職によって定められる、と教えている。最後の使徒が死んだ時に、天啓が終わった。教理は不変である。教皇が教理を定義する時、教理がその時点から真実になるのではなく、教皇はただ、最後の使徒が死んだ時点から常に真実であったことを、誤らずに、荘厳に宣言するのみである。教理は、教会が「一度宣言した」時点から、決して「より深い解釈へ」と称してその意味から後退することなく 、信じるべきである。
異端者
(Heretic):洗礼を受けた者で、カトリック教会の教理を拒絶する者を示す。異端者は、信仰に関する権威ある教理を拒絶するために、布告が無くても、教会から自動的に(それ自体によって)破門される。
離教者
(Schismatic):洗礼を受けた者で、真なる教皇や真なるカトリック教徒との交わりを拒む者を示す。離教者は、ほぼ必ず同時に異端者である。離教者は自動的に破門を受ける。
背教者
(Apostate):洗礼を受けた者で、一つ以上のカトリック信仰の真理を否定するだけではなく、キリスト教を完全に離れる者を示す。背教者も、自動的に破門を受ける。
対立教皇
(Antipope):教皇への偽りの主張者(即ち、ローマ教皇への偽りの主張者)を示す。教会の歴史上、40名以上の対立教皇が居た。その中に、ローマに影響力を及ぼした者も居た。この本は、第2バチカン改革が「真なる教皇」を装う対立教皇によって齎されたことを証明する。
使徒座空位;教皇座空位論
(Sedevacante; sedevacantist position):Sedeはラテン語で「座」を、Vacanteはラテン語で「空」を表す。使徒座空位の期間は、教皇が居ない期間である、要するに聖ペトロの使徒座は空位状態にある。一般的に、使徒座空位は、教皇が死亡し、または退位した時に生じる。使徒座空位は、教会の歴史上、200回以上生じ、場合によって、数年間に渡って続く。そして、教会博士は、教皇が明白な異端者になった場合、使徒座は空位になると教えている。教皇座空位論とは、ローマに影響力を及ぼしている者は公式な異端者であることを証明できる故に真なる教皇ではないので、聖ペトロの使徒座は現在空位であるという、伝統的なカトリックの見方を示している。
第二バチカン
(Vatican II):1962年~1965年に行われた公会議を示す。第二バチカンは、偽って「カトリック教会の公会議」と称されているが、実際には革新的な「強盗会議」であり、カトリック教会が非難している教理を教えている。第二バチカンは、新興宗教をもたらし、それをきっかけに生じた信じられないほど腐った実や革新的変化の原因となった。
第二バチカンセクト
(Vatican II Sect):第二バチカン後に現れた、カトリックの予言と聖書に預言された偽りの教会を示す。この偽りのセクトは、この本がかなり詳しく証明しているように、異端や背教、言語道断のスキャンダルがはびこっている。この本は、第二バチカンセクトがカトリック教会ではなく、大背教の時代における悪魔による、人々を道に惑わせるための偽りであることを証明している。
ノヴス・オルド・ミサ
(Novus Ordo Missae):ラテン語で「ミサの新しい式次第」を表す。パウロ6世が1969年4月3日に公布した新しいミサのことを示す。
ノヴス・オルド教会
(Novus Ordo Church):この本では、基本的に「第二バチカンセクト」と同じ意味で用いられている。「第二バチカンセクト」とは、第二バチカンの偽りの教会、新しいミサ及びその信奉者のこと。
伝統的なカトリック教徒
(Traditional Catholic):いつの世でも変わらぬ伝統的なカトリック信仰や今までの教皇が宣告した全ての教理、また教会の伝統儀式を忠実に守る者。伝統的なカトリック教徒は、第二バチカンの偽りの宗教や新しいミサ(ノヴス・オルド)がカトリックの教義に背く新規性なので、これらを拒絶する。
偽伝統主義者
(False Traditionalist):伝統的なカトリック信仰の一部(例えば、エキュメニズムなど、第二バチカンの一部の教えに反対すること)に忠実であるが、同時に何らかの形で偽りの第二バチカンセクトへの忠誠を持っている人を示す。この「偽伝統主義者」の第二バチカンセクトへの忠誠は、殆どの場合、第二バチカン公会議後の偽「教皇」を真なる教皇と認めていることに原因がある。(この本が示しているように)第二バチカン公会議後の偽「教皇」たちは実際に、対立教皇であると証明できる。
エキュメニズム
(Ecumenism):偽りの宗教を尊敬・尊重して、彼らと結合し、また彼らと共に祈るよう指示する、第二バチカンや第二バチカン後の偽「教皇」たちの教えを示す。第二バチカンセクトが教導・実施している「エキュメニズム」は、カトリックの教義や教皇たち、また教会の聖伝によって直接的に非難されている。エキュメニズムは、真なる宗教を偽りの宗教と、また真なる神を偽りの神々と同じ水準にしてしまう。この本では、第二バチカンセクトの教会一致主義はかなり詳細に暴露されている。「エキュメニズムという異端の行為は、狭義では、プロテスタントや分離のセクトと結合することであり、非キリスト教の宗教と同じ行為をする場合は『異宗教間対話』と呼ばれる」、と言う人もいる。しかし、この二つの用語は、今日ではほぼ同義である。
カトリックの概念から見る非カトリックの宗教
非カトリックの宗教は偽りである/カトリック教会の外に救いなし:カトリック教会は、唯一の真の宗教と唯一の真の神を教義として教えている。教会は、非カトリックの宗教は全て偽物であり、悪魔の物だと教えている。「カトリック教会の外に救いなし」(ラテン語:extra ecclesiam nulla salus)は、カトリック信仰の教義である。この教義は、教皇のエクス・カテドラの布告に7度定義された。
異教/他の神々への崇拝
(Paganism/the worship of other gods):異教とは、仏教やヒンズー教など、偽りの多神論の宗教。カトリック教会は、異教徒が崇拝しているさまざまな神々は全て悪霊だと教えている。
イスラム教
(Islam):偽預言者が啓示した偽りの宗教。イスラム教徒はムスリムとも呼ばれ、コーランという本に従う。ムスリムは、三位一体やキリストの神性を否定する。カトリック教義によれば、イスラム教は唾棄すべく極悪非道なセクト(すなわち悪魔のセクト)である。ムスリムは不信者(不信仰者)であり、救われるために改宗しなければならない。
第二バチカンセクトはイスラム教を善い宗教として褒め立てています。
ユダヤ教
(Judaism):イエス・キリストをメシア(救世主)と認めないで、モーセの仲介によって与えられた旧法を実施しようとしている宗教。ユダヤ教によれば、メシアはまだ一度も現れていないので、これから初めてやって来るとされている。カトリック教会の教えによれば、旧法がキリスト降臨によって解約されたので、旧法を守り続けることは大罪であり(フィレンツェ公会議)、ユダヤ教の信奉者は、イエス・キリストとカトリック信仰に改宗しなければ救われない。
正教/東方正教徒
(Orthodoxy/Eastern Orthodox):1054年に起きたカトリック教会からの分裂の信奉者を示す。いわゆる「正教徒」は、教皇権や教皇の不可謬性といった教理及び最後の13教義的公会議を否定している。彼らはまた、離婚・再婚を許している。カトリックの教えによれば、「正教徒」は異端者であり、教会分理論者であり、一体性と救済のために改宗しなければならない。
しかし、第二バチカンセクトは、「正教徒」は改宗しなくても救われると教えています。(この本が証明しているように)第二バチカンセクトは、正教徒が真なる教会の一部であり、命ヘの道を辿っていると教えています。
プロテスタント教徒
(Protestants):1517年、マルティン・ルターが起こした反乱後、カトリック教会から分裂したセクトの信奉者達。プロテスタント教徒は、カトリックの教義を一つ以上の点で否定する人を示す。カトリックの教義のいずれか一つでも否定したり、教義に対して抗議(プロテスト)したりする人はみな異端者であり、事実それ自体により破門される。プロテスタント教徒が一般的に否定するカトリックの教義は、聖職やミサ、秘跡、教皇制、信仰と善行の必要性、聖人の取りなし等に関する領域にあたる。
第二バチカンセクトは、しかし、プロテスタント教が異端ではなく、プロテスタント教徒が異端者でもなく、彼らの様々なセクトが救済の手段であり、真なる教会の一部であると考えています。
その他、この本で使われている重要なカトリックの概念
カトリックは非カトリックの礼拝式に参加できない:第二バチカン前、全てのカトリック倫理神学の案内書は、非カトリックの礼拝式に参加することが神聖法に背く大罪であるという伝統的な教会の教えを繰り返し表明する。第二バチカン後、この死に至る罪深い行為は公式的に促進されている(例:この本の第二バチカンセクト対カトリック教会、非カトリックの礼拝式の参加についてという章を参照)。
行為は異端の証拠となる:供述書や口頭申告で異端を表す人もいるが、殆どの異端や背教は言葉でなく、行動で明示される。モスクやシナゴーグ等、非カトリックの神殿で礼拝に出たり、プロテスタント教徒や教会分理論者の教会で彼らと一緒に崇拝したりすることで異端や背教は表される。
というわけで、聖トマス・アクィナスは、ムハンマドの墓地で崇拝する者が背教者であると教えていました。人はこのような行動をするだけで、自分がカトリックの信仰を持っておらず、イスラムという偽りの宗教を容認していることを明示します。
以上の抜粋で、無原罪の御宿りの教義に反する異端は言葉や供述書及び「あらゆる外部手段」で示すことができることが分かります。実際に、ベネディクト16世は彼の著書『カトリック神学の原則』で、第二バチカン公会議後のセクトが東方正教徒に対して行われた、エキュメニズムの活動や表示行為が、(第二バチカンセクトに言わせると)離教者が教皇の優位性を認める必要はないことをはっきり示していると認めました:
これは、本で更に詳述されますが、「エキュメニズムの活動は教皇の優位性に反する異端を表す」と、第二バチカンセクトの元主導者から驚くべき自白です。これは、行為によって明示される異端の明確な例です。
カトリック教会は反対意見の持ち主をみんな排斥する:カトリック教会の教義的な教えを否定する者はみな非難・破門・排斥される。
キリストはカトリック教会の教義の保証人である故に、教義を一つ否定することは信仰全体を否定するのに等しい
カトリックは異端者と霊的に交わらない:カトリック教会の信仰を否定する者はみな、教会の外にあり、決して交わることがないので、本当のカトリックは彼らと霊的に交わってはいけません。
司教や教皇を含め、信仰からそれる聖職者に抵抗すべき;聖職者が公然と異端者になれば、自動的にその職を失う
公然たる背信行為とは何か?
非変節性
(Indefectibility):キリストがいつまでも教会とともにおられ(マタイ 28章)、また陰府の門は教会に打ち勝てない(マタイ 16章)という、キリストの約束を指している。非変節性とは、教会が世の終わりまで本質的には変わらないままであるという意味。教会の非変節性は、以下を必要とする:世の終末の時代に、教会の残存者がごく一握りの人数でも必ず生きている、教会の正式な教義は誤らない、真なる教皇は決して教会全体に向かって命令的に誤りを教えない。非変節性は、教皇を装う対立教皇を除外していないし、終末の時代に真なるカトリック教会の成員をごく一握りの人数まで減らす偽りのセクトをも除外していない。寧ろ、これが正に終末の時代に起こると預言されたことであり、アリウス派の危機の時にも起きたことである。
出典:
[1] Denzinger, The Sources of Catholic Dogma, B. Herder Book. Co., Thirtieth Edition, 1957, no. 1839.
[2] Denzinger 1800.
[3] Denzinger 1818.
[4] The Papal Encyclicals, by Claudia Carlen, Raleigh: The Pierian Press, 1990,Vol. 2 (1878-1903), Vol. 2 (1878-1903), p. 393.
[5] The Papal Encyclicals, Vol. 3 (1903-1939), p. 125.
[6] The Papal Encyclicals, Vol. 1 (1740-1878), p. 230.
[7] Denzinger 714.
[8] The Papal Encyclicals, Vol. 3 (1903-1939), p. 381.
[9] Decrees of the Ecumenical Councils, Sheed & Ward and Georgetown University Press, 1990, Vol. 1, p. 479.
[10] Von Pastor, History of the Popes, II, 346; quoted by Warren H. Carroll, A History of Christendom, Vol. 3 (The Glory of Christendom), Front Royal, VA: Christendom Press, p. 571.
[11] Denzinger 712.
[12] The Papal Encyclicals, Vol. 1 (1740-1878), pp. 41-42.
[13] The Papal Encyclicals, Vol. 1 (1740-1878), p. 57.
[14] The Papal Encyclicals, Vol. 3 (1903-1939), p. 242.
[15] The Papal Encyclicals, Vol. 1 (1740-1878), p. 201.
[16] The Papal Encyclicals, Vol. 3 (1903-1939), p. 317.
[17] St. Thomas Aquinas, Summa Theologica, Pt. I-II, Q. 103., A. 4
[18] St. Thomas Aquinas, Summa Theologica, Pt. II, Q. 12, A. 1, Obj. 2:
[19] Denzinger 1641.
[20] Benedict XVI, Principles of Catholic Theology, San Francisco: Ignatius Press, 1982, p. 198.
[21] Denzinger 246.
[22] Denzinger 705.
[23] The Papal Encyclicals, Vol. 2 (1878-1903), p. 394.
[24] The Papal Encyclicals, Vol. 2 (1878-1903), p. 393.
[25] The Papal Encyclicals, Vol. 2 (1878-1903), p. 393.
[26] Quoted in Sacerdotium, # 2, Instauratio Catholica, Madison Heights, WI, p. 64.
[27] The 1917 Pio-Benedictine Code of Canon Law, translated by Dr. Edward Von Peters, Ignatius Press, 2001, p.
[28] The Papal Encyclicals, Vol. 2 (1878-1903), p. 401.
[29] The 1917 Pio-Benedictine Code of Canon Law, translated by Dr. Edward Von Peters, p. 695.
[30] Dom Prosper Guéranger, The Liturgical Year, Loreto Publications, 2000, Vol. 4, p. 379.
[31] Quoted by St. Robert Bellarmine, De Romano Pontifice, II, 30.
[32] St. Francis De Sales, The Catholic Controversy, Rockford, IL: Tan Books, 1989, pp. 305-306.
[33] St. Robert Bellarmine, De Romano Pontifice, II, 30.