聖書はイエスが真に聖体(聖餐)に臨在すると教えているBr.ペトロ・ダイモンドO.S.B.2023/10/13 Br.ペトロ・ダイモンド著 ヨハネ6:53「イエスは言われた。『よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない』」 プロテスタントは、聖体がイエス・キリストの本物の御体・御血・霊魂・神性だと信じません。カトリックは、ミサ中に聖別後、「真の神、真の人主イエス・キリストは真に、実際に、実体的に」パンとぶどう酒の外観下で聖体におられると信じます(トリエント公会議『聖体に関する教令』)。カトリックの聖体説は、キリスト教史上最初の1500年間全会一致で持たれていました。聖体に関するカトリックの教えは、聖書的な裏付けが圧倒的で、否定できないものです。 ヨハネ第6章で、イエスはハッキリと、ご自分の肉は食べ物、ご自分の血は飲み物、また彼の御肉と御血を飲食しなければならないと言う ヨハネ6:51-58「『わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である』。そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、『この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか』。イエスは彼らに言われた、『よくよく言っておく。 人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、 わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。天から下ってきたパンは、 先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べ る者は、いつまでも生きるであろう』。」 イエスは繰り返し、ハッキリとして、ご自分の肉は食べ物であり、ご自分の血は飲み物であると発言します。御肉を食べず、御血を飲まないと、あなたの内に命はないと言っています。 ユダヤ人たちはイエスの御肉を食べるという概念を嘲笑 それに対してイエスはまさにこれを意味したと確認 非カトリックは、ヨハネ6章でのイエスの御言葉は文字通りに理解されるべきではないと主張しています。彼らは、イエスが比喩的あるいは象徴的にしか話していなかったと主張しています。このような解釈はヨハネ6章の文脈から正当化されるものではありません。更に、ユダヤ人たちがイエスの御肉を食べるという概念に不信を表した直後、イエスが彼らに言った言葉によって、その解釈は明確に反駁されています。 ヨハネ6:52-53「そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、『この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか』。イエスは彼らに言われた、『よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。』」 ユダヤ人たちは、イエスがご自分の肉を食べさせることはあり得る(あるいは彼が本当にそんなことを意味しうる)と信じませんでした。彼らは今時のプロテスタントの言っていることと同じように言いました。もし、イエスはプロテスタントの言うように(文字通りでなく)純粋に比喩的な意味で話していただけなら、彼らの恐れが杞憂に終わっていたとここは確信させるに絶好の機会でした。イエスが本当に人が彼の肉を食べることを意味したわけではなく、別の意味だっただろうと説明するに絶好の瞬間でした。 では、イエスは彼らに何を言ったのですか。ユダヤ人たちの不信に対し、イエスは同じメッセージを、即ち、彼の肉と血を飲食することは必要だとより強い表現でも言い返すのが見えます。イエスは彼らがその御肉と御血を飲食しなければ、彼らの内には命がないと告げられました。 その他:ヨハネ6:54では、イエスが本当に彼の肉を食べることを意味しているかどうかの疑問の余地を消しきるために、聖書はPHAGOという単語(「食べる」の意)をTROGO(「噛む」「かじる」の意)に切り替えた ヨハネ6:23-53のギリシア語原文では、phago(「食べる」「食いつくす」の意)という単語が9回用いられています。Phagoではイエスの御肉を食べるという概念は十分に伝わります。ユダヤ人たちがそんなわけないかと不信を表した直後、イエスはより強く、もっと生々しい単語に切り替えたと(ヨハネ6:54に)書いてあります。切り替えて(ヨハネ6:54以下に)用いられた単語はtrogoです。この語は文字通り「かじる」「噛む」「噛み砕く」を意味します。ネットでアクセスできる一冊のプロテスタントのスタディバイブルでも以上のことを確認してくれます。[1] そこで、その御肉を食べる必要への疑いを全部消し去るために、イエスは文字通り食べる(「かじる」「噛む」)ことしか意味していない単語に切り替えます。同語のtrogoはマタイ24:38とヨハネ13:18では文字通り食べることの意味で用いられています。 ヨハネ6:54-56「たしの肉を食べ[trogo]、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ[trogo]、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。」 この証拠に照らして、イエスは人が彼の肉と血を飲食することを意味しなかったと議論しては馬鹿らしいことです。 使徒、マリアに御体・御血を与えるイエス ヨハネ6:63は? 聖体がイエスの実際の御体と御血であるというヨハネ6章での圧倒的な証拠に直面されると、 ある非カトリックはそれに争うために何事も探そうとして、ヨハネ6:63を指摘するでしょう。 ヨハネ6:63「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。」 本節では、イエスが本当に人が彼の肉を食べることを意味しなかったことを示すと主張しています。ただし、この主張は成立しません。次の点によって反駁されています。 第一に、「肉はなんの役にも立たない」という部分ではイエスが話したのがご自分の肉のことではないのが分かっています。次の質問を考えてご覧:イエスの御肉は役に立たないか?ご受肉は?彼は繰り返し(ヨハネ6:51等)ご自分の肉が世の命だと言ったばかりだが、ご自分の肉が役に立たないと話しているのができましたか? もし、イエスはご自分の肉について肉が役に立たないと話したら、矛盾しているでしょう。ご自分の肉が世の命だと言ってから、直ぐに聞き手に御肉が「役に立たない」と告げていたでしょう。 それは無理で、馬鹿げたことです。イエスは「役に立たない」と言った時、ご自分の肉のことを話していませんでした。 第二に、イエスは本章で人が彼の体と血を飲食しなければならない(かつ御肉は食べ物)と約10回も言います。彼は文字通りでない意味で語っていたことを1回も示しません。本節でも示されません。 かえって、聞き手に対してご自分の肉と血について話した言葉は「霊であり、また命である」と強調すると、イエスは彼らが関心を持つべきなのは肉体的生活の栄養食肉しかないという概念を晴らしていました。聖体は(イエスがハッキリと言うように)イエスの実際の御肉・御血であり、および彼の霊魂・神性である。ですが、その第一義は霊的な賦与をもたらすことにあります。霊であり、命である。その第一義は霊的生活の糧となり、永遠の命を持つためです。 聖体は真にキリストの体 聖体の受領は空腹を満たすためではなく、しかし計り知れない霊的な命と恩寵をもたらすためです。それはイエスが彼らに伝えていたことです。以上は次の点によって確認されています。それはヨハネ6:63での御言葉の後にも、イエスに付いて行く者は御肉・御血についての「ひどい言葉」のせいで、彼の元を多く去って行ったということです。彼らはイエスの御肉と御血を飲食しなければならないと伝えられているのが分かったが、単に受け入れることができませんでした。 イエスの御肉と御血を飲食しなければならないと伝えられてから、イエスの弟子の多くはその元を去っていった この件は一同にとって、イエスは人が彼の御肉を食べなければならないと言って意味をしたのが明らかだ ヨハネ6:60-68「弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、『これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか』。しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、『このことがあなたがたのつまずきになるのか。』…それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。そこでイエスは十二弟子に言われた、『あなたがたも去ろうとするのか』。シモン・ペテロが答えた、『主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。』」 もし、イエスは本当に人が彼の肉と地を飲食するという意味をしたわけではないなら、彼は言うことの意味を明らかにし誤解のせいで去って行こうとしている弟子を防ぎ止めたでしょう。「待ちなさい、あなた方は私の言うことを誤解してしまいました。象徴的に話しただけです。本当に私の肉を食べ、私の血を飲むと意味をしたわけではありませんよ」と。ただし、イエスはそんなことを一切しません。イエスはそのメッセージを受け入れられない者をみんな去って行かせました。これは、イエスは文字通り御肉と御血の飲食が必要だと言っているのが一同が分かっている圧倒的な文脈表示です。単に受け入れられませんでした。それでも、イエスは真実を否定するか彼らに伝えたことを改変するわけがありませんでした。 イエスの御肉と御血を飲食する必要のせいで付いて行く者の多くがイエスの元を去って行ったという事実は、教会史上いろんな時期にこの問題がイエスの真の信仰を離れる主因となる悲しい実例になっています。16世紀にまたこのことが起こりました。あの時、大人数はご聖体がイエス・キリストの実際の御体と御血であることを信じたくなくて、イエスとその真の信仰を離れてしまいました。 プロテスタントは、出エジプト12章に書かれた、ヘブライ人が自家の戸を塗らなければいけなかった過越の小羊の血は、世の罪のために屠られた神の小羊たるイエスを表すと認めるが、神がヘブライ人に過越の小羊を食べるようにも命じたのに気づいていない 旧約で過越の小羊を食べるユダヤ人(左)とそれが象徴する聖体において食べられる神の小羊イエス(右) 出エジプト12章には、神がユダヤ人に自家の戸を小羊の血で塗るようお命じになったとあります。エジプトを過ぎ通る死の天使は、血で塗られたヘブライ人の家の戸を過ぎ越しました。 出エジプト12:13「その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。」 プロテスタントもカトリックも、過越の小羊の血(本当の出来事)が真なる過越の小羊であるイエス・キリストの予型(予表)でもあったことを容易に認めます。イエスは屠られた真の御小羊。その御血は世を救うために注がれました。人々は彼のご受難の功徳を受けなければ救われません。新約は、イエスが世の罪を取り除く「神の小羊」であると繰り返し宣言します(ヨハネ1:29;1ペトロ1:19;黙示22:1;黙示15:3等)。特に聖パウロは、1コリント5:7でイエスを過越の小羊として言い表しています。 1コリント5:7「新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。」 ヨハネ1:29「その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。』」 旧約の過越の小羊、イエスに対する予型 過越の小羊の血はイエス・キリストの御血に対する予型であり、過越の小羊はイエス・キリストに対する予型であることは疑いようがありません。さて、この問題に関して、興味深い部分はあります。ヘブライ人は自家の戸を小羊の血で塗るように命じられただけでなく、小羊を食べるようにも命じられたのですよ! 出エジプト12:7-8「その[小羊の]血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。そしてその夜、その肉を…食べなければならない。」 出エジプト12:11「あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。即ち腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である。」 過越の小羊を食する必要は、ご聖体において人の子の御肉を食べる必要を示します。御小羊の血で塗られただけでは不十分で、神の小羊イエス・キリストをも食しなければ救われません。ご聖体において彼を拝領しなければなりません。彼は有効のカトリックミサにて臨在になります。また興味深いことに、神の家族でない人は誰も小羊を食べてはいけません(出エジプト12:43-45)。同様に真の信仰を持たない人は誰もご聖体を受けてはいけません。 皆に奇跡的超豊富は可能と見せるために、イエスは聖体のことを話した前日にパンと魚の奇跡を行われた ご聖体において御肉と御血をいただくことをハッキリと話しているイエスの同章では、彼はパンと魚の増加の奇跡を行われました。 パンと魚の増加の奇跡を行われるイエス ヨハネ 6:9-14「『…大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持ってい る子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう』。イエスは『人々をすわらせなさい』と言われた。…そこにすわった男の数は五千人ほどであった。そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、『少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい』。そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。人々はイエスのなさったこのしるしを見て、『ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である』と言った。」 5000人は奇跡的に五つの大麦パンと、二匹の魚から増えてきた物を食べました。彼らにご聖体において御肉・御血を受けないとならないと伝える前日に、イエスはこの奇跡を行われました。ご聖体において御肉と御血を受けないとならないと伝える直前にこの奇跡を行うによって、そんなことがあり得るとイエスは示したいでした。イエスの肉と地を食べるという概念は彼らにとって全く新奇で、戸惑わせるものからです。同様に、人々のために多数の場所においてご臨在になるイエスという観念も驚かせるものでした。食物の奇跡的増加は、聖体の奇跡のことをお教えくださる前に彼らの疑念を晴らして、イエスの御言葉への完全な信頼を得ておくつもりでした。食物の奇跡的増加はまことに聖体という奇跡的な食物を表しました。ご聖体はパンではなく、キリストの御体と御血です。 聖体はただのパンであってはならない そうであればその旧約予型、超自然的に現れた荒野のマンナに劣ることになる 荒野のマンナ(出エジプト16)は聖体を予表したことを疑う余地がありません。イエスはヨハネ第6章で両者を結び付けています。 荒野のマンナを取り集めるイスラエル ヨハネ6:48-51「わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである。…わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である。」 イエスは荒野のマンナを言及し、そしてご自身の肉が天からの真なるパンであると言い切りました。荒野のマンナはパンだが、奇跡的に現れたパンでした。そのマンナが、毎日土曜日以外、ヘブライ人が荒野の中にいる40年間に渡って降り続けていたのです。天から下ってきたように出てきたのです。 出エジプト16:15「イスラエルの人々はそれを見て互に言った、『これはなんであろう』。彼らはそれがなんであるのか知らなかったからである。モーセは彼らに言った、『これは主があなたがたの食物として賜わるパンである。』」 新約成就は旧約予型より優れている。もし、プロテスタントの言うように、聖体はただのパンだけであれば、奇跡的に現れた荒野のパンに劣っているでしょう。旧約予型よりも劣っていることになる。筋が通っていません。ありえないことです。ご聖体は何らかの形で超自然的で、奇跡的でなければなりません。 「これはわたしの体である」「これはわたしの血である」とイエスは言う 「これはわたしの体と血の象徴だけである」と言わない マタイ26:26-28「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、『取って食べよ、これはわたしのからだである』。また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、『みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。』」 マルコ14:22-24「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、『取れ、これはわたしのからだである』。また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。イエスはまた言われた、『これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。』」 ルカ22:19-20「またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、『これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』。食事ののち、杯も同じ様にして言われた、『この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。』」 上記の訳文はプロテスタントの口語訳聖書よりです。プロテスタント訳でも、イエスは聖体はご自身の体と血であると宣言されることを示しています。ヘブライ語かアラム語では、「これがわたしのからだを表す」とか「これはわたしのからだの象徴である」とイエスにはいろいろ言いようがあったが、言っていないのです。「これはわたしのからだである」「これはわたしの血である」と言われています。 それに、ある人たちの考えに外れて、「わたしを記念するため、このように行いなさい」(ルカ22:19)という言葉は、聖体がただの象徴と示唆するわけではありません。「記念」に相当するギリシア語はanamnesisである。生贄的な意味を持つ単語です。旧約の捧げ物の一つです。捧げ物として奉納し返すを意味します。イエスは、彼の実際の御体と御血を記念の生贄として御父へと捧げるように言いつけています。 イエスの言葉遣いは、最初の契約の結成における出エジプト24章でのモーセのに相当する あの時、本物の血が使われていた 聖体の制定(マタイ26、マルコ14、ルカ22に書かれてある)は、出エジプト24章の最初の契約の制定に明らかに相当します。 出エジプト24:8「そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、『見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である』。」 マタイ26:26-28「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、『取って食べよ、これはわたしのからだである』。また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、『みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。』」 二つの契約の間の言葉遣いの類似性を注目しなさい。イエスは、最初の契約を制定したモーセと同じパターンで、御血において新しい契約を制定しています。イエスの新しい契約は古いのに取って代わり、『新しい』『永遠』の契約となります。しかし、イエスの言い及んだ血は本物の血ではなく、プロテスタントの言うようにただの象徴であるなら、新しい契約は古いのに劣っていることになります。なら、古い契約の制定では本物の血が使われていたのです。 1コリント10章は、聖体はキリストの実際の御体・御血にあずかることと明らかに教えている 1コリント10:16「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。」 聖パウロは、ご聖体がイエス・キリストの実際の御体と御血であると言っているのが明らかです。 1コリント11章には、相応しからず聖体を受領することは主の実物の御体・御血に対して罪を犯すことになる 1コリント11:26-29「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯 を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。」 聖書の明快な教えによれば、相応しくないままでご聖体を受領する者は主の御体と御血に対して罪を犯しています。聖パウロにいわく、わきまえずに、相応な心意気無しにご聖体を受領する者はさばきを飲み食いすることになります。ご聖体はただ、キリストを記念して取った、一切れのパンと若干のぶどう酒だけだとしたら、何故不相応にそれを受領する者は主の御体と御血に対して罪を犯すとされましたか。ご聖体はまことにキリストの御体・御血でなければ、当然キリストの御体・御血に対して罪を犯すとされることはないでしょう。 初代キリスト教会は全員一致で聖体がキリストの御体と御血だと信じていた アンティオキアの聖イグナチオ 前述で見えてきた明確な聖書的証拠に加え、古代教会による証言は聖体に関して、全員一致でカトリック側の教えを支持しています。誰もがこの点に関して教会の師父たちを調べに時間を取ったら、みんなが聖体がイエス・キリストの御体・御血と信じていたと発見します。教会の師父とは初期数世紀からのキリスト教著者たちです。使徒たちの伝承を受け取った人々です。 プロテスタントの聖体観は、誕生して最初の1500年間キリスト教会全体に無縁なものでした。この問題に関して、教会の師父たちから多くの箇所を引用できるが、三箇所のみを引用します。紀元110年には、アンティオキアの聖イグナチオ(イグナティオス)(一般的にプロテスタントが評価する使徒教父の一名)は、聖体がキリストの肉であることを否定した異端者のグループについて以下のように言いました。受肉と磔刑との実在も否定した仮現論者のことを指していました。 アンティオキアの聖イグナチオ『スミルナ人への手紙』7章、110年:「彼らが聖体と祈りを断っているのは、聖体が私たちの救い主イエス・キリストの肉であると告白していないからです。御肉が私たちの罪のために苦しみを受け、御父の善により、復活させられたのです。」 聖イレネオ(エイレナイオス)『異端反駁』5巻2章、185年:「従って混ぜた杯と焼いたパンは神の御言葉を受け、キリストの体である聖体となり、そしてこれらによって私たちの肉が上げられ支えられると、どのようにして肉が永遠の命である神の賜物を受けることができぬと言えるか。主の体と血によって養われる、事実主の手足であるその肉が。」 エルサレムの聖チリロ(キュリロス)『要理教育講話』秘義教話1、19:7、350年:「聖なる、礼拝すべき三位一体を呼ぶ前には、聖体のパンとぶどう酒が簡素なパンとぶどう酒であったが、呼んだ後パンがキリストの体となり、ぶどう酒がキリストの血となる通り…」(https://mb-soft.com/believe/txuc/cyril48.htm) リヨンの聖イレネオ 聖体に関するカトリックの教えを否定することは、あくまでもイエス・キリストと聖書の明快な教えを否定することになります。 脚注:[1] http://www.studylight.org/lex/grk/view.cgi?number=5176 🔍最新コメント 🔍我々の動画チャンネル$5.00セット:書籍2冊・DVD1枚内動画16本入り(定価送料付き)$5.00で購入「コロナウイルス」(”COVID-19”)捏造 - ビデオ証拠・現地報告 - 必見!ここで読む🔍魂の救いを助ける献金🔍^
聖書はイエスが真に聖体(聖餐)に臨在すると教えている
Br.ペトロ・ダイモンド著
ヨハネ6:53「イエスは言われた。『よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない』」
プロテスタントは、聖体がイエス・キリストの本物の御体・御血・霊魂・神性だと信じません。カトリックは、ミサ中に聖別後、「真の神、真の人主イエス・キリストは真に、実際に、実体的に」パンとぶどう酒の外観下で聖体におられると信じます(トリエント公会議『聖体に関する教令』)。カトリックの聖体説は、キリスト教史上最初の1500年間全会一致で持たれていました。聖体に関するカトリックの教えは、聖書的な裏付けが圧倒的で、否定できないものです。
ヨハネ第6章で、イエスはハッキリと、ご自分の肉は食べ物、ご自分の血は飲み物、また彼の御肉と御血を飲食しなければならないと言う
イエスは繰り返し、ハッキリとして、ご自分の肉は食べ物であり、ご自分の血は飲み物であると発言します。御肉を食べず、御血を飲まないと、あなたの内に命はないと言っています。
ユダヤ人たちはイエスの御肉を食べるという概念を嘲笑 それに対してイエスはまさにこれを意味したと確認
非カトリックは、ヨハネ6章でのイエスの御言葉は文字通りに理解されるべきではないと主張しています。彼らは、イエスが比喩的あるいは象徴的にしか話していなかったと主張しています。このような解釈はヨハネ6章の文脈から正当化されるものではありません。更に、ユダヤ人たちがイエスの御肉を食べるという概念に不信を表した直後、イエスが彼らに言った言葉によって、その解釈は明確に反駁されています。
ユダヤ人たちは、イエスがご自分の肉を食べさせることはあり得る(あるいは彼が本当にそんなことを意味しうる)と信じませんでした。彼らは今時のプロテスタントの言っていることと同じように言いました。もし、イエスはプロテスタントの言うように(文字通りでなく)純粋に比喩的な意味で話していただけなら、彼らの恐れが杞憂に終わっていたとここは確信させるに絶好の機会でした。イエスが本当に人が彼の肉を食べることを意味したわけではなく、別の意味だっただろうと説明するに絶好の瞬間でした。
では、イエスは彼らに何を言ったのですか。ユダヤ人たちの不信に対し、イエスは同じメッセージを、即ち、彼の肉と血を飲食することは必要だとより強い表現でも言い返すのが見えます。イエスは彼らがその御肉と御血を飲食しなければ、彼らの内には命がないと告げられました。
その他:ヨハネ6:54では、イエスが本当に彼の肉を食べることを意味しているかどうかの疑問の余地を消しきるために、聖書はPHAGOという単語(「食べる」の意)をTROGO(「噛む」「かじる」の意)に切り替えた
ヨハネ6:23-53のギリシア語原文では、phago(「食べる」「食いつくす」の意)という単語が9回用いられています。Phagoではイエスの御肉を食べるという概念は十分に伝わります。ユダヤ人たちがそんなわけないかと不信を表した直後、イエスはより強く、もっと生々しい単語に切り替えたと(ヨハネ6:54に)書いてあります。切り替えて(ヨハネ6:54以下に)用いられた単語はtrogoです。この語は文字通り「かじる」「噛む」「噛み砕く」を意味します。ネットでアクセスできる一冊のプロテスタントのスタディバイブルでも以上のことを確認してくれます。[1] そこで、その御肉を食べる必要への疑いを全部消し去るために、イエスは文字通り食べる(「かじる」「噛む」)ことしか意味していない単語に切り替えます。同語のtrogoはマタイ24:38とヨハネ13:18では文字通り食べることの意味で用いられています。
この証拠に照らして、イエスは人が彼の肉と血を飲食することを意味しなかったと議論しては馬鹿らしいことです。
使徒、マリアに御体・御血を与えるイエス
ヨハネ6:63は?
聖体がイエスの実際の御体と御血であるというヨハネ6章での圧倒的な証拠に直面されると、 ある非カトリックはそれに争うために何事も探そうとして、ヨハネ6:63を指摘するでしょう。
本節では、イエスが本当に人が彼の肉を食べることを意味しなかったことを示すと主張しています。ただし、この主張は成立しません。次の点によって反駁されています。
第一に、「肉はなんの役にも立たない」という部分ではイエスが話したのがご自分の肉のことではないのが分かっています。次の質問を考えてご覧:イエスの御肉は役に立たないか?ご受肉は?彼は繰り返し(ヨハネ6:51等)ご自分の肉が世の命だと言ったばかりだが、ご自分の肉が役に立たないと話しているのができましたか?
もし、イエスはご自分の肉について肉が役に立たないと話したら、矛盾しているでしょう。ご自分の肉が世の命だと言ってから、直ぐに聞き手に御肉が「役に立たない」と告げていたでしょう。
それは無理で、馬鹿げたことです。イエスは「役に立たない」と言った時、ご自分の肉のことを話していませんでした。
第二に、イエスは本章で人が彼の体と血を飲食しなければならない(かつ御肉は食べ物)と約10回も言います。彼は文字通りでない意味で語っていたことを1回も示しません。本節でも示されません。
かえって、聞き手に対してご自分の肉と血について話した言葉は「霊であり、また命である」と強調すると、イエスは彼らが関心を持つべきなのは肉体的生活の栄養食肉しかないという概念を晴らしていました。聖体は(イエスがハッキリと言うように)イエスの実際の御肉・御血であり、および彼の霊魂・神性である。ですが、その第一義は霊的な賦与をもたらすことにあります。霊であり、命である。その第一義は霊的生活の糧となり、永遠の命を持つためです。
聖体は真にキリストの体
聖体の受領は空腹を満たすためではなく、しかし計り知れない霊的な命と恩寵をもたらすためです。それはイエスが彼らに伝えていたことです。以上は次の点によって確認されています。それはヨハネ6:63での御言葉の後にも、イエスに付いて行く者は御肉・御血についての「ひどい言葉」のせいで、彼の元を多く去って行ったということです。彼らはイエスの御肉と御血を飲食しなければならないと伝えられているのが分かったが、単に受け入れることができませんでした。
イエスの御肉と御血を飲食しなければならないと伝えられてから、イエスの弟子の多くはその元を去っていった この件は一同にとって、イエスは人が彼の御肉を食べなければならないと言って意味をしたのが明らかだ
もし、イエスは本当に人が彼の肉と地を飲食するという意味をしたわけではないなら、彼は言うことの意味を明らかにし誤解のせいで去って行こうとしている弟子を防ぎ止めたでしょう。「待ちなさい、あなた方は私の言うことを誤解してしまいました。象徴的に話しただけです。本当に私の肉を食べ、私の血を飲むと意味をしたわけではありませんよ」と。ただし、イエスはそんなことを一切しません。イエスはそのメッセージを受け入れられない者をみんな去って行かせました。これは、イエスは文字通り御肉と御血の飲食が必要だと言っているのが一同が分かっている圧倒的な文脈表示です。単に受け入れられませんでした。それでも、イエスは真実を否定するか彼らに伝えたことを改変するわけがありませんでした。
イエスの御肉と御血を飲食する必要のせいで付いて行く者の多くがイエスの元を去って行ったという事実は、教会史上いろんな時期にこの問題がイエスの真の信仰を離れる主因となる悲しい実例になっています。16世紀にまたこのことが起こりました。あの時、大人数はご聖体がイエス・キリストの実際の御体と御血であることを信じたくなくて、イエスとその真の信仰を離れてしまいました。
プロテスタントは、出エジプト12章に書かれた、ヘブライ人が自家の戸を塗らなければいけなかった過越の小羊の血は、世の罪のために屠られた神の小羊たるイエスを表すと認めるが、神がヘブライ人に過越の小羊を食べるようにも命じたのに気づいていない
旧約で過越の小羊を食べるユダヤ人(左)と
それが象徴する聖体において食べられる神の小羊イエス(右)
出エジプト12章には、神がユダヤ人に自家の戸を小羊の血で塗るようお命じになったとあります。エジプトを過ぎ通る死の天使は、血で塗られたヘブライ人の家の戸を過ぎ越しました。
プロテスタントもカトリックも、過越の小羊の血(本当の出来事)が真なる過越の小羊であるイエス・キリストの予型(予表)でもあったことを容易に認めます。イエスは屠られた真の御小羊。その御血は世を救うために注がれました。人々は彼のご受難の功徳を受けなければ救われません。新約は、イエスが世の罪を取り除く「神の小羊」であると繰り返し宣言します(ヨハネ1:29;1ペトロ1:19;黙示22:1;黙示15:3等)。特に聖パウロは、1コリント5:7でイエスを過越の小羊として言い表しています。
旧約の過越の小羊、イエスに対する予型
過越の小羊の血はイエス・キリストの御血に対する予型であり、過越の小羊はイエス・キリストに対する予型であることは疑いようがありません。さて、この問題に関して、興味深い部分はあります。ヘブライ人は自家の戸を小羊の血で塗るように命じられただけでなく、小羊を食べるようにも命じられたのですよ!
過越の小羊を食する必要は、ご聖体において人の子の御肉を食べる必要を示します。御小羊の血で塗られただけでは不十分で、神の小羊イエス・キリストをも食しなければ救われません。ご聖体において彼を拝領しなければなりません。彼は有効のカトリックミサにて臨在になります。また興味深いことに、神の家族でない人は誰も小羊を食べてはいけません(出エジプト12:43-45)。同様に真の信仰を持たない人は誰もご聖体を受けてはいけません。
皆に奇跡的超豊富は可能と見せるために、イエスは聖体のことを話した前日にパンと魚の奇跡を行われた
ご聖体において御肉と御血をいただくことをハッキリと話しているイエスの同章では、彼はパンと魚の増加の奇跡を行われました。
パンと魚の増加の奇跡を行われるイエス
5000人は奇跡的に五つの大麦パンと、二匹の魚から増えてきた物を食べました。彼らにご聖体において御肉・御血を受けないとならないと伝える前日に、イエスはこの奇跡を行われました。ご聖体において御肉と御血を受けないとならないと伝える直前にこの奇跡を行うによって、そんなことがあり得るとイエスは示したいでした。イエスの肉と地を食べるという概念は彼らにとって全く新奇で、戸惑わせるものからです。同様に、人々のために多数の場所においてご臨在になるイエスという観念も驚かせるものでした。食物の奇跡的増加は、聖体の奇跡のことをお教えくださる前に彼らの疑念を晴らして、イエスの御言葉への完全な信頼を得ておくつもりでした。食物の奇跡的増加はまことに聖体という奇跡的な食物を表しました。ご聖体はパンではなく、キリストの御体と御血です。
聖体はただのパンであってはならない そうであればその旧約予型、超自然的に現れた荒野のマンナに劣ることになる
荒野のマンナ(出エジプト16)は聖体を予表したことを疑う余地がありません。イエスはヨハネ第6章で両者を結び付けています。
荒野のマンナを取り集めるイスラエル
イエスは荒野のマンナを言及し、そしてご自身の肉が天からの真なるパンであると言い切りました。荒野のマンナはパンだが、奇跡的に現れたパンでした。そのマンナが、毎日土曜日以外、ヘブライ人が荒野の中にいる40年間に渡って降り続けていたのです。天から下ってきたように出てきたのです。
新約成就は旧約予型より優れている。もし、プロテスタントの言うように、聖体はただのパンだけであれば、奇跡的に現れた荒野のパンに劣っているでしょう。旧約予型よりも劣っていることになる。筋が通っていません。ありえないことです。ご聖体は何らかの形で超自然的で、奇跡的でなければなりません。
「これはわたしの体である」「これはわたしの血である」とイエスは言う 「これはわたしの体と血の象徴だけである」と言わない
上記の訳文はプロテスタントの口語訳聖書よりです。プロテスタント訳でも、イエスは聖体はご自身の体と血であると宣言されることを示しています。ヘブライ語かアラム語では、「これがわたしのからだを表す」とか「これはわたしのからだの象徴である」とイエスにはいろいろ言いようがあったが、言っていないのです。「これはわたしのからだである」「これはわたしの血である」と言われています。
それに、ある人たちの考えに外れて、「わたしを記念するため、このように行いなさい」(ルカ22:19)という言葉は、聖体がただの象徴と示唆するわけではありません。「記念」に相当するギリシア語はanamnesisである。生贄的な意味を持つ単語です。旧約の捧げ物の一つです。捧げ物として奉納し返すを意味します。イエスは、彼の実際の御体と御血を記念の生贄として御父へと捧げるように言いつけています。
イエスの言葉遣いは、最初の契約の結成における出エジプト24章でのモーセのに相当する あの時、本物の血が使われていた
聖体の制定(マタイ26、マルコ14、ルカ22に書かれてある)は、出エジプト24章の最初の契約の制定に明らかに相当します。
二つの契約の間の言葉遣いの類似性を注目しなさい。イエスは、最初の契約を制定したモーセと同じパターンで、御血において新しい契約を制定しています。イエスの新しい契約は古いのに取って代わり、『新しい』『永遠』の契約となります。しかし、イエスの言い及んだ血は本物の血ではなく、プロテスタントの言うようにただの象徴であるなら、新しい契約は古いのに劣っていることになります。なら、古い契約の制定では本物の血が使われていたのです。
1コリント10章は、聖体はキリストの実際の御体・御血にあずかることと明らかに教えている
聖パウロは、ご聖体がイエス・キリストの実際の御体と御血であると言っているのが明らかです。
1コリント11章には、相応しからず聖体を受領することは主の実物の御体・御血に対して罪を犯すことになる
聖書の明快な教えによれば、相応しくないままでご聖体を受領する者は主の御体と御血に対して罪を犯しています。聖パウロにいわく、わきまえずに、相応な心意気無しにご聖体を受領する者はさばきを飲み食いすることになります。ご聖体はただ、キリストを記念して取った、一切れのパンと若干のぶどう酒だけだとしたら、何故不相応にそれを受領する者は主の御体と御血に対して罪を犯すとされましたか。ご聖体はまことにキリストの御体・御血でなければ、当然キリストの御体・御血に対して罪を犯すとされることはないでしょう。
初代キリスト教会は全員一致で聖体がキリストの御体と御血だと信じていた
アンティオキアの聖イグナチオ
前述で見えてきた明確な聖書的証拠に加え、古代教会による証言は聖体に関して、全員一致でカトリック側の教えを支持しています。誰もがこの点に関して教会の師父たちを調べに時間を取ったら、みんなが聖体がイエス・キリストの御体・御血と信じていたと発見します。教会の師父とは初期数世紀からのキリスト教著者たちです。使徒たちの伝承を受け取った人々です。
プロテスタントの聖体観は、誕生して最初の1500年間キリスト教会全体に無縁なものでした。この問題に関して、教会の師父たちから多くの箇所を引用できるが、三箇所のみを引用します。紀元110年には、アンティオキアの聖イグナチオ(イグナティオス)(一般的にプロテスタントが評価する使徒教父の一名)は、聖体がキリストの肉であることを否定した異端者のグループについて以下のように言いました。受肉と磔刑との実在も否定した仮現論者のことを指していました。
リヨンの聖イレネオ
聖体に関するカトリックの教えを否定することは、あくまでもイエス・キリストと聖書の明快な教えを否定することになります。
脚注:
[1] http://www.studylight.org/lex/grk/view.cgi?number=5176