現代のプロテスタント英訳聖書は、ルカ1:28を「Hail, full of grace」(おめでとう、恵みに満ちた方よ)と訳しません。代わりに「Rejoice, highly favored one」(喜べ、高く寵愛を持たれた方よ)とか似たような表現を使います。プロテスタント訳は間違っています。間違っていることを証明するためには、やり方が幾つかあります。原文のギリシア語はkecharitomene。この単語は、「恵み」の観念に直接まつわります。ギリシア語学者らは、kecharitomeneがcharisという語源に由来し、そしてcharisは文字通り「恵み」を意味すると指摘します。150回出現回数のうち、ジェイムズ王訳(プロテスタント訳聖書)は129回charisを「grace」(恵み)と訳します。
初期プロテスタント訳がルカ1:28を「full of grace」あるいは相当語句にした事実も極めて重要な情報です。名プロテスタントのウィリアム・ティンダル(1494年 – 1536年)は一部のプロテスタントにとってヒーローだと見なされています。彼の聖書訳は1525年頃、初期近代英語に訳されました。ティンダルはこうルカ1:28を訳した:「Hayle full of grace ye Lorde is with ye: blessed arte thou amonge wemen.」(おめでとう 恵みに満ちた方よ 主はあなたと共におられます。あなたは女のうちで祝福されています。)(http://wesley.nnu.edu/biblical_studies/tyndale/)英国人プロテスタントのトマス・クランマー(1489年 – 1556年)も当の箇所を「full of grace」と訳しました。
「Ave Gratia Plena」とはガブリエルからマリアへの挨拶のラテン語訳、「おめでとう、恵みに満ちた方よ」との意
名プロテスタントギリシア語学者A.T. Robertson著『Word Pictures of the New Testament』は、ルカ1:28についてこう書いてある:
「高く寵愛をもたれた(kecaritwmenh)。Caritowの完了受動分詞、その意は恵み(cariß)を授かった、エフェソ1:6では恵みで豊かにされた…ヴルガタ訳のgratiae plenaは『自分が受けた恵みに満ちた方』という意味なら正しく、『自分が与えるべき恵みに満ちた方』という意味なら間違っている。」 (Robertson『Word Pictures of the New Testament』、ルカ1:28)
イスラエル人が神への特別な捧げ・奉仕のために初子たちを聖別する(即ち、取っておく)ように神は具体的に命じられました。「初子」という称号では、その子は遺産二倍分を受ける権利を持つため、更なる重さを有します(申命21:17)。この称号「初子」は、女性が後で他の子を生んだか生んでいないかにも関わらず、その子につけました。例えば:「テル・エル・ヤフディヤにある出産中に死んだ母親の墓のギリシア語碑文(参照:『Biblica』11, 1930 369-90)から見て取れる:『我が初子を産んでいる苦痛により、運命が人生の終わりに連れてくれた。』」(William Most著『Brothers and Sisters of Jesus』より引用)
また、12歳のイエスが神殿で見出された際、マリアとヨセフが生んだ他の子は何ら気配もない事実は有意義です(ルカ2:45-51)。一人っ子であるらしいです。ヨーロッパ諸言語では、イエスは定冠詞付き「マリアの息子」(the son of Mary)と呼ばれ(マルコ6:3)、不定冠詞付きマリアの息子の一人(a son of Mary)と呼ばれません。マリアが他の子を産んだと一度も言われていません。
マリアへの祈り、マリアに関するカトリックの教えの聖書的根拠
至福なる乙女マリアはイエス・キリストの母です。ある人の主張に反して、カトリック教会はマリアが神であると教えていません。教えたこともありません。それは異端となります。マリアは被造物に過ぎないが、神に創造された人間の中では最も偉大な存在です。マリアに関するカトリックの教えの聖書的証拠、そしてなぜ彼女の役割と重要性を理解することがそんなに必要とするのかを以下にご覧ください。
聖書とそのマリア(イエス・キリストの母)に関する教えを理解するには、『聖書的予型』を理解しなければなりません。
【予型】新約の何かを予示または予表する真実な出来事や人物、制定物。
聖書は、最初の人アダムがイエス・キリストの予型だと教えている
イエス・キリストは真の神・真の人でした。アダムはただ人、最初の人でした。しかし、聖書にいわくアダムは来るべき者イエス・キリストの予型でした。
どうしてアダムはイエスの予型でしたか?以下の聖句では最善にまとめられているかもしれません。
アダムは世を罪に陥れました;キリストは世をアダムの罪から贖いに来られました。アダムは善悪の知識の木での不従順によって罪を犯しました;キリストはご従順、十字架という木の上での犠牲によって世を贖われました。だからこそ聖書はキリストが新しい、もしくは第二の、もしくは最後のアダムであるとあります。アダムのしたことを取り消しに来られました。彼がキリストにおいて超自然的に生きてくる者からなった新しくて、贖われた民族の頭に立った一方、最初の人アダムは罪に陥った人類の頭でした。
聖書は、イエス・キリストは第二のアダムだと教えている
聖書的予型は沢山あります。これらの出来事や人物、物事は全て後に来るべき何かを予表した実在の出来事や人物、物事でもあったことをお心に留めなさい。数例を挙げよう:
【1コリント10:1-2】紅海横断(出エジプト14)が洗礼を予表したと聖書は教えている。
【1ペトロ3:19-21】ノアの箱舟および大洪水が洗礼・教会による救いを予表したと聖書は教えている。
【1コリント5:7】生贄とされた過越の小羊(出エジプト12)が、世の罪を取り除く神の小羊キリスト(ヨハネ1:29)を予表したと聖書は教えている。
【ヘブライ 8:8-9】旧約の制度は新約の「影」あるいは型であったと聖書は教えている。
【マタイ12:40】ヨナのクジラの中に三日三夜間泊まったのがイエス・キリストの死者の内から三日三夜後の復活を予表したと聖書は教えている。
他にも多数例を挙げられます。予型の成就(「対型」と呼ぶ)が予型より優れていることを理解することは重要なのです。イエスはアダムより無限に優れている;新約は旧約より;ご復活はヨナの苦難よりなど。その上で、今度はマリア、イエス・キリストの母の予型を考えましょう。マリアの予型は沢山あります。他の聖書的証拠に加え、これらの予型はマリアに関するカトリックの教えの否定できない聖書的証拠になります。下記の点は、多くの非カトリック教徒にとって間違いなく新しくて、驚くべきものです。
キリストは新しいアダムである如く、マリアは新しいエバである
前述の通り、アダムはイエス・キリストの予型でした。世が罪に陥る堕落においては、最初の人アダムに絡んだ一人の女がいました。それはエバ、最初の女でした。原罪を起こしたのはアダムの違反でした。ただし、エバは原罪に至る出来事に手を染め、密接不可分に結びついています。その女(エバ)は罪を犯して、アダムが罪を犯すきっかけになったのです。
「女」(エバ)が原罪に至る出来事に深く関係していた如く、お贖いに至る出来事に深く関係していた女一人もいます。それはマリア、イエス・キリストの母。彼女は新しいエバなのです。
エバとマリアの間に明確な類似点は数多くあります。この数点は、キリストは新しいアダムであるように、マリアは新しいエバである証明になります。
エバは堕天使(蛇)と話し、彼を信じ、彼に従った―
マリアは良い天使(ガブリエル)と話し、彼を信じ、彼に従った
創世3:4-6「へびは女に言った、『あなたがたは決して死ぬことはないでしょう…』。…[エバは]その実を取って食べ…」
ルカ 1:26-38 「…御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。…名をマリアといった。御使がマリアのところにきて言った、『恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます』。…すると御使が言った、『恐れるな、マリアよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい…』。…そこでマリアが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』。そして御使は彼女から離れて行った。」
エバは蛇(悪魔)、堕天使に近寄られました。エバは彼の偽り言を信じ、神に背きました。エバは罪を犯し、そして夫に罪を犯させて、世を死に陥れました。
マリアはガブリエル、善き天使に近寄られました。マリアは彼の救いのお告げを信じました:即ち、彼女は女の内で祝福されていた、恵みに満ちた、救い主を生み出す。マリアは神にお従いになりました。その従順をもって、マリアはイエス・キリストがご胎内に御宿りになるのを承諾し、イエスが来て世をアダムの罪から贖うことは可能にしました。
極古代教会においても、これらの聖書的類似点は、キリストが新しいアダムであるようにマリアを新しいエバとする同定として認められていました。聖イレネオは2世紀の有名な使徒教父でした。彼は最初のエバと第二のエバ(マリア)とを対照します。
エバは全ての生きた者の母であった―
マリアは、イエスの御母としては、全ての生きた者の母であり、命そのものの母さえでもあった
生命のあった者は皆エバの子孫なので、「全ての生きた者の母」と呼ばれていました。マリアも全ての生きた者の母ですが、全く優れている形です。マリアはイエス・キリストの母です。彼は『命』そのものであり、自らには全ての命が見つかるものです。
イエスは『命』です。よって、マリアは文字通りに『命』そのものの母です。
命そのものたるイエスを産んだマリア
エバ、全ての生きた者の母、との類似点は明らかなのです。相違点があればマリアは人間存在より無限大に優れている『命』の母であるということです。彼女の御子において生き死にする者は、御子における永遠の命を手に入れ、新しい被造物になります。
また成就(全ての生きた者の母としてのマリア)は予型(全ての生きた者の母としてのエバ)よりも優れています。
エバは罪無しに造られた―
新しいエバであるマリアも罪無しに造られたはず
(無原罪の御宿り)
聖書はマリアが新しいエバだと示すことをもう見てきました。それで質問すべきはこちらです:エバの魂は何の状態で造られましたか。エバは創世2章で全ての罪から放れて造られたのです。人類の堕落まで全創造物は完全だったのです。アダムとエバは二人とも原義の状態で造られました。二人は創世3章での原罪まで、全ての罪から放れたあの原完徳の状態を失いませんでした。
神は最初の女(第一のエバ)を罪無しに造られたのであれば、第二の(かつ優れた)エバ(至福なる乙女マリア)も罪無しに造ることができたはずです。それこそ神がなさったことです。取り分および正義の問題としてなさらなければならなかったことなのです。 なぜなら、マリアは贖われた人類の最初の一員となるからです。
無原罪の御宿りの定義
荘厳にマリアの無原罪の御宿りという教義を発言する教皇ピオ9世
「無原罪の御宿り」とは乙女マリアのご胎内に宿られたイエスのことを指すと思い間違える人がいますが、それは正しくないです。確かにイエスはマリアのご胎内に罪無しで宿られたが、しかし「無原罪の御宿り」とはマリアのその母の胎内に宿られたことを指します。彼女は創造された最初の瞬間から、全人類の他の人(イエス以外)が受け継ぐ原罪の何ら汚れからも保護されてしまいました。
神はイエス・キリストの救い功徳を考慮して彼女を罪無しでご保護くださいました。マリアは全神聖な神を宿すことになる呪われないかつ純粋な器でなければならないので、そのことが彼女のためになさられたのです。無限神聖さを宿すために、マリアは創造された最初の瞬間から神聖でなければならなかったのです。
イエスは優れた形でマリアを救われた
それで、マリアは原罪の汚れから保護されたのであれば、彼女には救い主がなかったというわけですか。いいえ。マリア自身は答えます。
神はマリアが原罪にかかるのを阻んで彼女を救われました。一人の男性が森の中にある深い穴に落ちて、友人に引っ張り出されるとしよう。友人がその男性を救ったと言えば事実です。さて、男性が深い穴へと向かって歩いている女性を見て、落ちるところで彼女を捕まえるとしよう。怪我も汚れもかぶることなく、彼女が穴に落ちるのを阻止しておきます。彼はその女性を救いましたか?間違いなく救いました。彼は優れた形で彼女を救いました。それは穴に落ちて被害を受けるのを阻むことによります。
主はマリアが原罪にかかることを阻んで彼女を救われた
それは神のマリアに対する救い方です。イエスは優れた形でマリアの救い主でした。それは最初から彼女が原罪にかかるのを阻み、生涯罪から彼女を保護することによります。マリアの独特の役割を考慮して、これを彼女のためになさったのです。マリアの無罪性は聖書における幾つかの予型によって示されています。
神が罪の全くない人間を造るという概念に不信感を表す人がいます。彼らは神が最初の男女を罪無しで造られたことを忘れています。
聖書は、マリアは新しい契約の箱だと教えている
聖書は疑いもなくマリアを新約の箱と同定することを見ましょう。マリアを旧約の箱に対応するものと同定するものです。マリアは旧約の箱が予表したのに対する新しい、優れた成就です。この情報は、マリアの深遠な役割を分かるには最も重要かつ透明化の一つなのです。
古い契約の箱とマリアの間には興味深い類似点がある
神のご臨在を宿し表していたので、古い契約/旧約の箱は地上で神自身を置いて最神聖かつ最強なものでした。契約の箱は十戒の石板を納めていた聖なる箱でした(申命10:5)。また御箱は神の地上の霊的臨在を宿し表してもいました。神はモーセにお語りになった時は、御箱の上にある二つのケルビムの間からでした。
聖書はマリアを新しい契約の箱と同定するのがどのようにしてかを見てみましょう。
イエス・キリスト葉肉となられた神の言です(ヨハネ1:1)。つまり、古い契約の箱は書かれた神の言葉を宿していたように、マリア(新しい契約の箱)も肉となられた神の言を宿していました。
神の霊により覆われた古い契約の箱・マリア
幕屋は聖なる御箱を納めるために作られたものです(出エジプト40:2-3)。神が幕屋と御箱の上にお下りになった際、出エジプト40:34-35はいわく神の栄光の雲あるいは目に見える臨在(「シェキナ」と呼ぶ)はそれを「覆いました」。この神の独特な臨在が御箱を「覆う」ことを述べるように用いられたこの珍語は、ギリシア語訳旧約聖書でepiskiaseiと訳されます。
同語の「episkiasei」は新約のギリシア語では、神の臨在が乙女マリアを「覆う」ことを述べるように用いられています。聖書でこの言葉遣いは御箱とマリアのことのみに使われています。
明白な含意は、神の臨在が古い契約の箱を覆ったように(新しい御箱だから)マリアをも覆い、彼女の上にも下るということです。この事実は、マリアはただの被造物であり神より無限大に劣っていても、新しい御箱であると表します。それゆえ彼女は神と独特な縁があり、独特な聖性や聖化、力を持っているのです。
マリアが新しい契約の箱としている2サムエル6章とルカ1章からの驚くべき証拠
聖書に記されている2サムエル6(ドゥエ・ランス英訳カトリック聖書での2列王6)で古い契約の箱に起こったことと、ルカの福音書1章で新しい契約の箱至福なる乙女マリアに起こったことの間の驚くべき類似点を考慮しましょう。2サムエル6章は聖書内で古い契約の箱に関する最完全な物語です。ルカ1章は聖書内で至福なる乙女マリアに関する最完全な物語です。
ダビデ「どうして主の箱が私のところに来ることができようか」。エリサベト「どうして主の母が私のところに来られるか」。エリサベトはマリアのことを、御箱のことを話したダビデと同じように話しています。なぜならマリアは新しい契約の箱だからです。この二つの発言の唯一の違いは、箱と書いてあったところが「母」に書き換えられただけです。聖書は主の母=箱と伝えたいのです。物語を読み続けると、この事実は疑う余地もなくなります。
ダビデと古い契約の箱・マリアとエリサベト
ダビデは御箱の前に踊ったように、エリサベトの胎内の幼子はマリア(新しい御箱)の前に踊りました。
2サムエル6で、御箱はガト人オベド・エドムのところに三か月留まったとあります。同様にして、ルカ1で、マリア(新しい契約の箱)はエリサベトのところに三か月滞在したとあります。
また2サムエル6:11には、主がオベド・エドムとその家を祝福されたと記されています。聖書で「祝福」とはしばしば多産に子孫を残すことを意味します。
マリア(新しい契約の箱)の滞在中、主はエリサベトとその家を子(洗礼者ヨハネ)の誕生で祝福された
この事実からしてまたルカ1とマリアに対する類似点が他に見えてきます。なぜならルカ1:57はいわくマリアがエリサベトのところに滞在してから、主がエリサベトとその家を子の誕生(洗礼者ヨハネ)でご祝福くださいました。
ここに書かれているとおり、上記の不思議な類似点が起こったのは、ダビデがユダの山里へ御箱を取りに行った時(2サムエル6:2)と、新しい契約の箱マリアがユダの山里へ行った時(ルカ1:39)でした。
聖書は書かれた時に章立ても節立てもなかったです。聖書は12世紀まで章節立てされないままでした。従って、黙示録の著者、使徒聖ヨハネは連続の一流れで11章の末尾から12章の冒頭まで原文を書きました。11章の末尾にて、イエスの契約の箱は天に見えたとあります。その次節は黙示12:1。よって、11章を閉じる文はそのまま12章を開ける文に区切りなく流れ込んでいます。
つまり、11章の末尾に登場したイエスの契約の箱(「契約の箱が神殿の中に見えた」【黙示11:19】)はすぐに次節12章(黙示12:1)で読み始める太陽をまとった「女」の幻により説明されています。この事実は、太陽をまとった、胎内に神的ペルソナを宿した「女」(乙女マリア)は新約の箱であると示しています。
荒野のマンナ(出エジプト16)が命のパンとしているイエスを予表したには違いありません。イエスはヨハネ6章で二つを関連づけらます。荒野のマンナに言及し、あとご自分の肉が天から下った真のマンナだと言われます。
荒野のマンナを取り集めるイスラエル
荒野のマンナが古い契約の箱の中に置かれました。それはイエス・キリスト自身(真の新約のマンナ)がイエスの母マリアの内に宿ったことを予表します。
ヘブライ9:4では、またアロンの杖が古い契約の箱の中に置かれたとあります。民数17では、杖が誰が真の大司祭かを証明するように芽を出させたとあります。こうしてアロンの杖は真の大司祭を表しました。新約では、イエスは真の大司祭だと書かれています。
旧約の芽を出させるアロンの杖は大司祭の力を表した 杖が古い契約の箱に納まっていた
それとヘブライ6:20とヘブライ9:11、他の聖句を調べれば、イエスが真の大司祭である証拠は更に集められます。認めざるを得ない結論は、御箱の中に置かれたアロンの杖がマリア(新しい契約の箱)の内に宿った真の大司祭なるイエス・キリストを予表したということです。
新約はマリアは新しい契約の箱であると示していることには疑いようが絶対にありません。これの証拠は否定できません。
マリアは新しい契約の箱である以上、イエス・キリスト以外には地上で最も神聖なものである
契約の箱は、神ご自身の臨在以外に地上で最も神聖なものでした。御箱は幕屋にの中、至聖所の中に納まりました。御箱があるからこそ、至聖所があんなに神聖だったのです。
御箱は極めて神聖なため、神の民がその後に付いて行った時に、敬意をもって距離を置かなければなりませんでした。
御箱に不法に触った人は殺されました。
古い契約の箱に軽率に触ろうとしたウザの命を神は奪われる
ベト・シェメシュの人々はあえてはこの中を覗き込んだから殺されました。
神がご自身の霊的臨在に密接接触をするべき物はどれほど神聖視したかをこれで分かります。
マリアは新しい契約の箱である以上、神聖でないとならなく、罪無しにも創造されなければならなかった
御箱の作りには、神は最も精密な明細を与えられました。御箱が最も純度の高い金で作られるように命じられました。
興味深いことに、御箱は周囲を金で覆われないとならなかっただけでなく、「周囲に金の飾り縁」という特別な指示も出されています。
古い契約の箱は神の独特な霊的臨在の座だったので、完璧かつ神聖でなければなりませんでした。神の聖性は、欠陥のあったものとの接触によって汚されてはいけません。同じくかつそれ以上に、乙女マリアは新しい御箱とし、イエス・キリストを宿す方として、罪無しかつ完徳の状態で造られなければなりませんでした。
マリアはただ神の霊的臨在を宿しただけではなく、イエス・キリスト(神そのもの)を宿しました。マリアは書かれた神の言葉を宿しただけではなく、肉となられた神の言を宿しました(ヨハネ1:1)。それゆえ、マリアは完璧ではなければなりません。全ての罪から解放されていなければなりません。終生処女、男に触られていなくなければなりません。
律法の書かれた石板を納め、神の霊的臨在に覆われた古い契約の箱は、最も純度の高い金で覆われ神の最精密な明細に従ってつくられなければならないのであれば、新しい契約の箱なるマリアのつくりの場合では、どれほど優れているか。成就は予型より優れています。新しい契約の箱であるマリアは、古い契約の箱より優れていなければならない、かつまさに優れているのです。
古い契約の箱と同じく、マリアも悪魔と神の敵を支配する物凄い威力を持っているはずです。神のご祝福を下させ、神の民をお助けになることにおいては、神に取り次ぐ力を持っているはずです。それも古い契約の箱とは同じでした。
古い契約の箱と同じく、マリアは独特な取り次ぎの力を持っている 神の敵、悪魔を支配する、神の民をお助けになる物凄い力を持っている
古い契約の箱は凄まじい力を持っていました。御箱がペリシテ人に奪われた時、彼らとその偽神のダゴンは凄い目に遭いました。
ペリシテ人が古い契約の箱をダゴンの神殿に置いてから、頭・両手が切り離されたペリシテ人の偶像ダゴン
ペリシテ人は御箱を奪ったために破壊され始めたので、彼らの敵であるイスラエル人に御箱を返すことにしました。
御箱は神の敵の顔に死の恐怖をさせました。
ヨルダン川の水が御箱によって奇跡的に干し上げられました。
マリア、新しい契約の箱は、この力を持ってこれ以上も持っています。成就は予型より優れているのだから、それと新約は旧約よりも。これからもっとマリアに関するカトリックの教えを扱いましょう。
アダムが造られ出た地はマリアとその罪からの保護(無原罪の御宿り)の予型である
イエス・キリストが新しいアダムであることはもう立証してきました。アダムは地あるいは土から形作られました。
「土」のヘブライ語はAdamahです。女性名詞です。アダムはそう名づけられたのはAdamahから出たからです。彼の名は”土の子”という意味です。Adamahの子。(この点は、Biblical Foundations International、PA州ダンモアのGerry Matatics氏に出された。)
この点はもっと固められることができるが、あるレベルでアダムが造られ出た地がマリアの予型の一つであることは明らかです。最初のアダムは土から神によって造られ、第二のアダム(イエス・キリスト)は母のマリアから肉をお取り受けになりました。それで質問すべきはこれ:地が創造された時、どんな状態でしたか?
初めてアダムが形作られ出た地(あと誠に堕落前の神の創造物全体)は全然呪われず、堕落せず、完璧でした。そこに罪と呪いがある所ではないでした。
第二かつ優れたアダム(イエス・キリスト)を生み出すマリアは、同じく全然呪われず、堕落せず、完璧なはずです。罪の汚れ、原罪の呪いから全て保護されているはずです。それは『無原罪の御宿り』と呼ばれます。
創世3:15で預言されたことを完全に成就するのはマリアとその罪のなさのみ―「わたしは恨みをおく、おまえ[蛇]と女とのあいだに…」
アダムとエバが堕落してから間もなく神はこの預言をなさいます。
悪魔と「女」の間に恨み―敵意・分裂・対抗―があるようになると神は言われます。同じ文脈で女のすえのこと、および女とそのすえによって与えられる勝利のことが書かれています。聖書では、男の子供や子孫は彼のすえとして語られています。故に、女のすえとは独特なものです。女性一人のみによる子を指します。当然これは処女受胎およびイエスの母至福なる乙女マリアのご胎内からの出生を指します。女の「すえ」とはイエス・キリストなのです。
従って、ここで蛇に対抗や恨みをするのと同定される女は、明らかにイエス・キリストの母マリアです。その女は、蛇に屈したエバではなく、マリアです。
神は、恨みや対抗を蛇と女の間に置くと言われます。その結果、マリアは罪から完全に保護されるはずです。なぜなら、人は罪を犯すと、悪魔に対抗するのではなく、かえって悪魔に屈するのです。女が蛇に対して完全かつ確実な対抗ができた唯一方法は、罪とアダムの罪からの保護にあるのです。
マリアはこの「女」である、故に悪魔および罪の支配から全く解放されている事実は、新約聖書を通しイエスがマリアを「婦人(女)」と呼ぶ理由となります。イエスは御母を「婦人(女)」としか呼びません。多くの非カトリック教徒は、これが御母に対するイエスの見下し方、彼女の役割に対する軽視し方と思い込むが、それどころか、イエスがマリアを創世3:15の「女」と同定されていたのです。
ヨハネ2:3-5を表面的に読むと、カナの婚礼でイエスは御母を叱り付けている印象を持つ人もいるが、実はイエスに取り次ぐマリアの力を明かします。イエスはご自分の時はまだやって来ていないと言われました。言い換えるなら、ご自分の奇跡的な力はまだお披露時ではありませんでした。それでも、新婚夫婦に哀れを抱いた御母が促すことで、とにかくイエスは奇跡を行われました。御母が促すことで、時は「まだ来ていない」のに、この(最初の)奇跡を行われました。この件は、(普段ならイエスが与える気のない)恩寵がどのようにしてイエスからマリアを通して手に入るかの立派な事例です。
御母が促すことで、時は「まだ来ていない」にも関わらず、水をぶどう酒にしてカナの婚礼を祝福したイエス
沢山の非カトリックはまた異を立てる:もしマリアがそんなに重要な存在なら、なぜイエスは福音書著者に、読者に御母の地位を軽んじていたかの印象を匂わせさせましたか?数節がそんな印象を匂わせるではないか、別にその観念を晴らさないではないかと主張しています。答えは、神が真珠を豚に投げることをされません(マタイ7:6)。神がご真実をわずかに隠したり、丁度水面下に置いたりすることが多くて、表面的な努力や不誠実な人は見落とすか思い違いをするようになります。しかし、もっと忍耐心のあり深く掘り下げる者(あるいは単にイエスが建てた教会を信用する者)は、宝石を見つけ真の意味に辿り着けます。
特にマリアの深遠な役割に関する聖書の教えの場合では全くそうです。表面的な読み取りおよび不誠実な努力では、人間が盲目のままで居続けます。でも聖書内です。これまで見ての通り、マリアは新しいエバであり、そして創世3:15の女であるということです。あとで見るように、新しい契約の箱でもあり、その他でもあると分かります。全部聖書的予型とより深く理解された沢山の聖句の内にあるが、とても多くはその事実に気づかないままでいます。見ても見えず、聞いても聞こえず。キリストが建てた唯一の教会を信用しないながらも、悲しいことに彼らは聖書の教えについて浅いかつ誤った理解しかを取れませんでした。
他の女性も十字架のふもとにいたのに、イエスは御母のみを呼びかけられました。彼女は創世3:15に記された、完全に蛇に対抗している女であるので、またイエスは「女」でしか呼びません。またイエスは、聖ヨハネに御母を自分の母にしろと言われました。
マリアの魂が主を崇め、また全能主が彼女に偉大な事をされた
ルカ1章には、神に与えてもらったマリアの独特な特典がちらちらと見えます。
マリアと聖エリサベト
聖書にいわくマリアの魂が主を崇め、貶めることはいない。マリアは心をイエスから逸らす存在ではなく、人をイエスに導く存在なのです。古い契約の箱は神の威力および臨在を示していました。民の中にあった時、御箱は全能者への信心へと、信頼へと、愛へと彼らを突き動かしました。似たようでもそれ以上に、新しい御箱なるマリアは、私たちのために強くイエス・キリストに誘導し、彼を中心としてくださるのです。マリアの持つ物事とであることは全てイエス・キリストの母であるからです。罪から保護して、神はマリアに偉大な事をしてくださったのです。
またルカ1:48は特筆に値します。そこには、マリアが「代々の人々は」ご自分を「さいわいな(祝福された)女と言う」と預言されました。これは「アヴェ・マリア」というカトリックのお祈りについての預言なのです。代々にわたってカトリック信者はこのお祈りを唱えてきた:「アヴェ・マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます、あなたは女のうちで祝福され、ご胎内の御子イエスも祝福されています。神の母聖マリア、私たち罪人のために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。」
聖書にはマリアは「恵みに満ちた」とある つまり、罪がない
聖ガブリエルに良いお知らせをもらったマリア
現代のプロテスタント英訳聖書は、ルカ1:28を「Hail, full of grace」(おめでとう、恵みに満ちた方よ)と訳しません。代わりに「Rejoice, highly favored one」(喜べ、高く寵愛を持たれた方よ)とか似たような表現を使います。プロテスタント訳は間違っています。間違っていることを証明するためには、やり方が幾つかあります。原文のギリシア語はkecharitomene。この単語は、「恵み」の観念に直接まつわります。ギリシア語学者らは、kecharitomeneがcharisという語源に由来し、そしてcharisは文字通り「恵み」を意味すると指摘します。150回出現回数のうち、ジェイムズ王訳(プロテスタント訳聖書)は129回charisを「grace」(恵み)と訳します。
初期プロテスタント訳がルカ1:28を「full of grace」あるいは相当語句にした事実も極めて重要な情報です。名プロテスタントのウィリアム・ティンダル(1494年 – 1536年)は一部のプロテスタントにとってヒーローだと見なされています。彼の聖書訳は1525年頃、初期近代英語に訳されました。ティンダルはこうルカ1:28を訳した:「Hayle full of grace ye Lorde is with ye: blessed arte thou amonge wemen.」(おめでとう 恵みに満ちた方よ 主はあなたと共におられます。あなたは女のうちで祝福されています。)(http://wesley.nnu.edu/biblical_studies/tyndale/)英国人プロテスタントのトマス・クランマー(1489年 – 1556年)も当の箇所を「full of grace」と訳しました。
「Ave Gratia Plena」とはガブリエルからマリアへの挨拶のラテン語訳、「おめでとう、恵みに満ちた方よ」との意
聖ヒエロニモ(ヒエロニムス)(紀元347年 – 420年)は古代教会の聖書学者でした。1611年版ジェイムズ王訳聖書のプロテスタント諸訳者でも聖ヒエロニモについては、「最も学問のある教父であり、自らの時代といい、以前の時代といい、誰に比べても文句なく最高の言語学者」と言っています(1611年版ジェイムズ王訳の訳者序文より)。聖ヒエロニモは、ラテン語ヴルガタ訳で「kecharitomene」を「gratiae plena」と訳しました。その意味は「自分が受けた恵みに満ちた方」です。「Grace」(恵み)は、ランス新約聖書でも正しい訳語として受け入れられました。
名プロテスタントギリシア語学者A.T. Robertson著『Word Pictures of the New Testament』は、ルカ1:28についてこう書いてある:
マリアは「恵みに満ちた方」であれば、それなりに彼女には罪がないと強く示唆しています。なぜなら、恵みが罪に対抗しているのです。天使は、マリアが恵みに満ちているようになると言っているわけではなく、マリアに出会った時点でももうその状態でいたということです。その状態で御宿りになりました。更に、マリアの立場は独特なので、「女のうちで祝福されている」と宣告されます。
マリアは終生処女であった
マリアが新しいエバであり、新しい契約の箱であることは見てきました。さて、マリアの終生処女性の聖書的証拠を調べましょう。現代のプロテスタント教徒は大抵マリアの終生処女性を否定します。聖書と矛盾していると思い込んでいるのです。マルティン・ルターを含め、ジャン・カルヴァン、フルドリッヒ・ツヴィングリなどといった最初のプロテスタント者が皆マリアの終生処女性を信じていたことを知ると、多くのプロテスタントは驚くでしょう。マリアが処女でなくなり、イエス以外にも子供がいたという概念は、原プロテスタント”改革”の何世代後に生み出されたものです。そういうわけで、この点においてプロテスタントの立場は古代カトリック聖伝、聖書(後述を参照)と矛盾しているだけでなく、自らのプロテスタント”伝統”とも矛盾しているのです。
マタイ1:25はマリアの終生処女性を反証しない
マリアの終生処女性に反論をぶつけるには、普通プロテスタントは最初にマタイ1:25を引用します。
プロテスタントによると、この聖句はマリアがイエスの誕生後処女でなくなった証明になります。「まで」のギリシア語(heos)は、ヨセフがイエス・キリストの誕生後マリアと夫婦関係を持ったという意味合いがあるわけではありません。単にその時点まで夫婦関係を持っていないという意味で、後で何かが起こったか何も語っていません。これが以下で数多くの聖句によって証明されています。聖書は何千年前書かれたものであることも念頭に入れるべきです。聖書の書かれた時代と諸言語は、現代国語と同じように物事を表現したり暗示したりをするのではありません。
例えば、2サムエル6:23(ドゥエ・ランス英訳カトリック聖書での2列王6:23)には、神はダビデの妻ミカルを呪われたとあります。契約の箱前のダビデの喜び方を嘲笑したので、神に呪われました。結果的に、ミカルは死ぬ日「まで」子供がありませんでした。
これで死後ミカルは子供を産み始めたというわけでしょうか?当然そういうわけではありません。本節にて、聖書は何かがとある時点「まで」または「前に」真実であると述べると、その時点の後で必ずしも真実でなくなったわけではないと証明しています。次は他の数例:
本節は神の子のことを語っています。これで神の敵が御子の足台にされてからもう御父の右に座しないというわけでしょうか?当然そういうわけではありません。御子は父なる神の右の座に居続けます。
これで彼が来てから朗読や教えをやめるべきというわけでしょうか?当然そういうわけではありません。
これでパウロはその日以後必ずしも良心がなくなったというわけでしょうか?当然そういうわけではありません。
副詞「前に」ないし「ないうちに」(ギリシア語:prin)は同じように使えます。
ここに、「ないうちに」という表現は「まで」と似たような使え方が見えます。
この子は死ななくて、イエスが癒やしてださったのです(ヨハネ4:50)。それゆえに、以下に引用されたマタイ1:18の発言、すなわちマリアがヨセフと一緒になる「前に」、身重になったのは、身重の後一緒になったというわけではありません。単に性的接触がなくてでも妊娠していたということです。
聖ヨセフと聖乙女マリアとの婚約
従って、マタイ1:25およびマタイ1:18が一切マリアの終生処女性と矛盾していないのはかなり確かなことです。プロテスタントは、これらの聖句はマリアが処女でなくなった証拠になると正しく主張できません。マリアが終生処女である証拠にもなりません。マリアの終生処女性は聖書内の他のものによって証明されています。
「初子」のことは何であろう―他の子供を暗示するのではないか?
「初子」とは、ユダヤ系家庭内の初めに生まれた男児に与える法的称号:言い換えれば、初めの子でもある男児につけるもの。
イスラエル人が神への特別な捧げ・奉仕のために初子たちを聖別する(即ち、取っておく)ように神は具体的に命じられました。「初子」という称号では、その子は遺産二倍分を受ける権利を持つため、更なる重さを有します(申命21:17)。この称号「初子」は、女性が後で他の子を生んだか生んでいないかにも関わらず、その子につけました。例えば:「テル・エル・ヤフディヤにある出産中に死んだ母親の墓のギリシア語碑文(参照:『Biblica』11, 1930 369-90)から見て取れる:『我が初子を産んでいる苦痛により、運命が人生の終わりに連れてくれた。』」(William Most著『Brothers and Sisters of Jesus』より引用)
出エジプト13章・34章には、初子が神に捧げられる神の規定について書かれています。『初子の聖別』のための式がありました(出エジプト13章&34:20)。「初子」の式は、女性が次子を産むまで延期されたわけではないでしょう。
従って、イエスがマリアの「初子」であるという発言(ルカ2:7)はマリアの終生処女性と一切矛盾していません。単にイエスはマリアの初めかつ男性の子であるという意味です。以後他の子供が生まれたかなかったかは何も言っていません。
イエスの”兄弟たち”はどういうこと?
非カトリックはしばしばイエスの「兄弟姉妹」に言及する聖句を挙げます。まず、これらの”兄弟”は、イエスの母マリアの子供と言われたことが一度もないことが言われるべきです。
原文内のギリシア語は、adelphoi(「兄弟たち」)とadelphe(「姉妹たち」)。Adelphoiとadelpheという語は、本物の兄弟姉妹を指せるが、聖書は兄弟でなくいとこや親戚、義兄弟、親しき隣人である人間にも両単語を用います。
聖書には、アブラハムはロトの兄弟とあるが、文字通りそうではなかった
ロトはアブラハムの甥。アブラハムはロトの伯父(創世11:31・14:12を参照)。それなのに、聖書の原文には、ロトはアブラハムの「兄弟」だと二回も書いてあります。「兄弟」という単語は必ずしも同じ親の人をいうものではないのです。前述の通り、いとこや、親戚、義兄弟、家族ぐるみの友人をいうこともあります。
創世11:27「テラの系図は次のとおりである。テラはアブラム、ナホルおよびハランを生み、ハランはロトを生んだ。」
創世12:5「アブラムは妻サライと、弟の子ロトと…」
創世14:12「またソドムに住んでいたアブラムの弟の子ロトとその財産を奪って去った。」
創世14:14「アブラムは身内の者[原文:兄弟のロト]が捕虜になったのを聞き……」
創世14:16「…また身内の者[原文:兄弟の]ロトと…」
この点に反論するには、旧約聖書はギリシア語ででなく、ヘブライ語で書かれたと異を唱えるプロテスタントもいます。だからロトの場合はadelphosが文字通り兄弟でもない人も指せる証明にならないと言われています。この議論を反駁するにはこれを指摘する:旧約聖書は元々ヘブライ語で書かれていたが、キリスト来臨の数世紀前七十学者によってギリシア語に翻訳されたのは周知です。この有名な聖書訳は『七十人訳聖書』と言います。
ロトとアブラハムのお別れ アブラハムの甥だが、ギリシア語訳旧約聖書にはアブラハムの兄弟と呼ばれるロト
旧約のギリシア語訳『七十人訳聖書』は、霊感受けた新約著者たちに約300回引用されています。新約著者は七十人訳聖書を受け入れたということです。七十人訳において、ロトはアブラハムの兄弟と表現するように同じギリシア語のadelphosが用いられます。Adelphosは新約でイエスの「兄弟たち」に使う単語adelphoiの単数形です。従って、旧約は文字通り兄弟でない者のことを話すようにもadelphosを用います。
しかし、この点は新約からも証明できます。使徒3:17とローマ9:3では、同族異両親の人々のことを話すように、adelphoi(兄弟たち)は用いられるのが見て取れるのです。これらの聖句は、この点においてプロテスタントの議論に対する致命打撃と見ていい。
なお、ルカ10:29・マタイ5:22・マタイ7:3においては、同じ親の人とは限らず、adelphos(「兄弟」)が隣人に用いられるのが見て取れます。
しかし、いとこをいうギリシア語、ANEPSIOSはあった イエスの兄弟たちは実は兄弟でなく、いとこであれば、なぜANEPSIOSが用いられなかったであろうか?
カトリック教会は、マリアは終生処女で他の子供を産んでいなかったと教えています。別にイエスの「兄弟たち」が皆いとこであるとは教えません。拡大親戚や親友、または婚姻・法律・故郷による身内関係を持つ人間だったこともあります。例えば、2サムエル1:26では、ダビデ王はヨナタンを「兄弟」と呼びます。ヨナタンとダビデは兄弟でもいとこでもありません。ダビデは、ヨナタンの妹、サウル王の娘ミカルと結婚したのです。こうしてダビデは家族に婿入りしました。
血縁関係がなくても聖書に「兄弟」と呼ばれるダビデとヨナタン
聖書に記されたイエスの「兄弟たち」(adelphoi)の大人数からして、拡大親戚でもなく、他の縁によって身内とされた人もいたらしい。もし一人か数人かはいとこでなく、拡大親戚や隣人、家族ぐるみの友人と近い関係の持ち主がいても、adelphoiという語は使用されました。それゆえ、いとこをいう単語が使用されなかった事実は、一切マリアが他の子供を産んだ証明にならないのです。
マタイ27:56からの証拠は、イエスの「兄弟たち」が同じ親の人ではなかったと示す
ヤコブとヨセフとは、イエスの「兄弟たち」として連ねられた二名です。以下の点により、この二名はイエスの兄弟ではなく他女性の子供であると示すことができます。次をじっくりと熟考しなさい。
十字架のふもとにいた女性は三名:①聖母マリア(イエスの母);②クロパの妻マリア(聖母マリアの姉妹と言われる);③マグダラのマリア。
クロパの妻マリアは、マタイ28:1に「他のマリア」と書かれています。聖書によると、ヤコブとヨセフはこのマリアの子らである:
かくして、ヤコブとヨセフ(イエスの「兄弟たち」と呼ばれる)は同じ親ではなく、少なくともイエスのいとこです。第一従兄弟でさえないかもしれませんが。なぜなら、クロパのマリア(ヤコブとヨセフの母親)は、イエスの母の「姉妹」と言われる(ヨハネ19:25)のに、マリアという名をつけられたのです。ヘブライ系家庭内で同名をつけられた二人姉妹がいるとは非常に怪しそうなのです。多分姉妹ではなく、「姉妹たち」と呼ばれた同氏族の人間たちだったようです。同じくヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダはイエスの「兄弟たち」と呼ばれたようです。これらの点からしてイエスの兄弟姉妹に関する聖書の発言は何も、至福なる乙女マリアの終生処女性と決して矛盾してはいないのです。さて、マリアが他の子がなくて終生処女である証明を調べましょう。
ヨハネ19:26はマリアがイエス以外の子を産んでいなかった証明になる
十字架上で死にゆくイエスは、御母を使徒聖ヨハネのお世話に任せられます。
御母と聖ヨハネにお互いを託した十字架上のイエス
学者たちは、これは正式委託行為だったと指摘します(Gerry Matatics前掲書)。御母の世話がされるように、イエスは聖ヨハネに御母を託されました。プロテスタントの主張の通り、マリアが他の子供を産んだのであれば、イエスは聖ヨハネに御母の世話をしろと仰せられなかったのです。彼女は大人数の”兄弟たち”の一人の世話になったでしょう。イエスがマリアを聖ヨハネに託した事実は、外の子がなかった証明になります。
イエスの”兄弟たち”は信者でなかったので、御母を聖ヨハネに託されたとプロテスタントが反論を返そうとします。しかし、その反論は使徒1:14によって反駁されています。当の聖句は、イエスの”兄弟たち”は信者であったと示しています。イエスはきっと彼らが信者だった、あるいは信者になることをご存知で、同じ親の人たちなら聖ヨハネに託されなかったのです。
また、12歳のイエスが神殿で見出された際、マリアとヨセフが生んだ他の子は何ら気配もない事実は有意義です(ルカ2:45-51)。一人っ子であるらしいです。ヨーロッパ諸言語では、イエスは定冠詞付き「マリアの息子」(the son of Mary)と呼ばれ(マルコ6:3)、不定冠詞付きマリアの息子の一人(a son of Mary)と呼ばれません。マリアが他の子を産んだと一度も言われていません。
特に神殿でイエスが見出された頃、マリアはイエス以外の子供がいる気配は全くない
ルカ1章におけるマリアの天使への応答は、もう終生処女のご誓願を立てたと示している
天使はマリアの前に現れ、身ごもって男の子を産むと告げます。それに応答するマリア:「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。本当の意味:どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしは処女ですもの。どうして、そんな事があり得ましょうか?マリアは子供の宿し方を理解していました。その応答は、終生処女の誓願を立てた場合にのみ意味をなします。マリアは、どうして処女でありながら子を宿すことができるのかを尋ねていました。
終生処女の誓願を立てたので、子を宿すという聖ガブリエルのお告げに驚いたマリア
また、マリアとヨセフが婚約したことは、そんな誓願を立てたことと矛盾しないのは指摘しておくべきです。当時の道徳観では、処女性を約束した女性にはその誓願を守り尊重する男性保護者が必要としました。それはヨセフの役目でした。
新しい契約の箱が性的接触をするのは想像もつかない
これまで見ての通り、マリアは新しい契約の箱と聖書は明らかに教えています。地上最神聖なる被造物かついと高き方の器として、マリアが何らかの性的接触をしたと思うことは、全く筋が通らず―全然御箱の尊厳と役割に合っていないのです。シナイ山に来臨する神に向けて民を準備するように、モーセはこう言った:
逃亡中のダビデが司祭からパンを要した際は、こう書いてある:
御箱はもっと崇高かつ神聖な理由のために作られて、性的接触をすることがなかったでしょう。ウザは、触ってはいけない御箱に触れただけで撃ち殺されました(2サムエル6:6-8)。
エゼキエル44章の閉じた門の預言は、マリアの終生処女性の預言
ここには主がこの門から入って、他の誰もこの門から入らないとあります。
預言者エゼキエルは閉じた門のお話でマリアの終生処女性を預言した
これはマリアの終生処女性を語る預言です。マリアはそこから主が入る閉じた門です。これは伝統的なカトリック文書でマリアが「天国の門」と呼ばれてきた理由の一つとなるのです。
マリアの終生処女性は古代キリスト教会で固く信じられていた
あるプロテスタントと”正教会”の殆どの成員は、第2コンスタンティノポリス公会議を認め守ると主張しています。第5公会議でした。見ての通り、会議は明らかにマリアの終生処女性を教えました。
ラテラン公会議にて、終生処女であるマリアという教理を荘厳に発言した教皇聖マルティノ
古代キリスト教会は、マリアは終生処女であると信じていました。4世紀に、聖ヒエロニモ、聖書学の父・聖書をラテン語に訳した者は、否定する異端者ヘルヴェティクスに対してこの真実を擁護しました。既述の通り、ルターを含め、カルヴァンやツヴィングリといった最初のプロテスタント者でもマリアの終生処女性を受け入れました。
マリアの身体被昇天と天における元后(女王)職の聖書的証拠
カトリック教会は、地上の人生を送ってから、至福なる乙女マリアが体と魂と共に天国に被昇天したと教えています。その体は墓穴に留め、肉体腐敗を受けていませんでした。なぜなら、これは原罪の処罰で、マリアにはそれがなかったのです。マリアは全原罪から放れており、特典ある御箱だったので、直接ご霊肉と天に連れて行かれたのです。それは「マリアの身体被昇天の教義」と言います。
非カトリックは、聖書的にマリアの被昇天の証拠がないと主張しています。それどころか、その記述が黙示12章に書いてあります。
黙示12章の女は色々なものを示します。イエスの御母を示し、またある程度ご教会のことを示すと教父たちに理解されました。マリアのことを示すことを疑いようがありません。なぜなら、この女の御子は鉄の杖で万国民を支配する方だからです(黙示12:5)。無論、それはイエスである。それで母は乙女マリアのはずです。従って、黙示12章は被昇天して天の元后の位置に据えられたマリアという明確なイメージを与えてくれます。
また聖書は詩編132:8(ドゥエ・ランス英訳カトリック聖書での詩編131:8)でマリアの被昇天を一見させてくれます。
この興味深い詩は永久の安息所へと立ち上がっている、もしくは運び入れられている主と御箱を語ります。これは御被昇天のイメージ。前に証明した通り、イエスは主、マリアは新しい御箱なのです。お二人はご霊肉と天に連れて行かれます。イエスは御自力で昇天。マリアはイエスによって被昇天。
古い契約の箱が安息所へと運び去られているというならば、新しき永遠の契約の箱は尚更ではないか。御箱は聖別されたと言われているのも見えます。
マリアの被昇天は罪からの保護による論理の流れ
マリアの身体被昇天は全原罪自罪からの保護による論理の流れです。墓穴内の肉体腐敗は原罪の結果なのです(創世3:19)。殆どのプロテスタント教徒もこの点において同意するでしょう。新しい契約の箱として、マリアには原罪がありませんでした。そんなわけで、その結果からも解放されているのです。これに従い、神は彼女の体に腐敗をお受けさせにならなかったでしょう。
聖者に腐敗を受けさせない神を語る本詩は、新約使徒2章で引用されています。イエスのことに言及しています。
同様に、マリアはあらゆる罪から放れて創造されたため、墓穴内の肉体腐敗を受けずご霊肉と天国に被昇天したのです。
御箱は朽ちぬ木材で作られた
古い契約の箱はセティム材(またはシッティム罪)という朽ちぬアカシア材で作られました。
セティム材は、ギリシア語版旧約聖書の七十人訳に「朽ちぬ」もしくは「腐らぬ」木材と訳されているほど至極耐久性の高い木です。古い契約の箱は朽ちないとすれば、新しい契約の箱も尚更朽ちなくならないでしょうか。神は箱作りのために朽ちぬ木を特定されました。それは新しい御箱、至福なる乙女の朽ちぬ体と魂の予表としているからです。
マリアの身体被昇天は聖書の実在事と矛盾しない
マリアが奇跡的にご霊肉と被昇天できたのは空想的だと思う人もいます。ただし、聖書はエリヤが奇跡的に天に連れて行かれたと伝えてくれます(2列王2:1,11)。エノクが神と共に歩くように奇跡的に連れて行かれたとも書いてあります(ヘブライ11:5・創世5:24)。また全人類は、善人であれ悪人であれ、義人と失格者の復活のために、最後の審判に際しては奇跡的に自分の体と再結合させられていく(1コリント15)とは聖書における明確な教えである、かつ古代キリスト教信仰の一条。かくして、マリアが神の完璧な箱であり罪無しであったゆえに被昇天したと信じるのは決して聖書の実在事と矛盾せず、むしろそれに丁度合っているのです。
聖書は、マリアがイエスの王国における「王太后」であると示している
『王国』を樹立するために、神はダビデと契約を立てられました。ダビデ君主国、神の地上の王国は、イエスが立てる神の霊的な王国の原型となるようなものでした。それだけあって、イエスは福音でダビデの子と呼ばれているのです。使徒2:30でペトロ自身がイエスがダビデの王座に着いていると言っている理由となるのです。ルカ1:32はイエスについて次のように語る:
ヘブライ君主政では、王国内最も権力ある、栄誉受けた、重要な女性は王の母親でした。通称「王太后」。ヘブライ語では、「ゲビラ」と呼ばれます。王国の王太后ゲビラは、王に対する独特な影響力を持っていました。ゲビラの影響力や権力、威信は王の妻のも超えていました。1列王1章・2章では「王太后」の影響力と権力が明らかに見えます(ドゥエ・ランス英訳カトリック聖書での3列王1章・2章)。
ソロモン王の母はバト・シェバでした。バト・シェバの王太后としての権力および影響力は、アドニヤに次のことを言われたほど絶大だった:
アドニヤは王太后の地位と権力を理解していました。しかし、アドニヤの要請は無茶なことでした。アドニヤはダビデ王の最後の妻アビシャグと結婚したかったからです。彼女を妻にすれば、アドニヤはソロモンの王位を請求することができたのです。そのために王は彼の要請を叶えられませんでした。
アドニヤの要請は無茶で王に叶えられることがなかったものの、この件は王太后が王に対する独特かつ深遠な影響力を持つことが認識されていたと示してくれます。この影響力はアドニヤが「王はあなたに断るようなことはないでしょう」と言ったほど大きかったです。
次の数節は更にこの真実を明らめます。1列王2:19には、バト・シェバ(王太后)は頼み事をするためにソロモン王のもとに話しに行ったとあります。行ったと、王は彼女にひれ伏し隣に彼女用の座を設けさせました。
聖書は王太后は座と独特な栄誉があると示している
見ての通り、王太后は王と一緒に座の上で栄誉を受けていると聖書は教えています。無論、彼女は王と対等ではないが、王国の女王として王と共に栄誉を受けています。ここに至福なる乙女マリアの元后職とその王に対する影響力の描写が見えます。彼女はイエスの王国における王太后です。マリアが神的御子に限りなく劣っています。ただし、彼女は完璧な御箱であり、天地の元后である。
これはなぜマリアが天国でその神的御子の下にそんな権力を持つかの理由となる―王に対する旧約の王太后のも超えている権力・影響力。それはなぜ彼女にお願いを頼むのがそんなに効果的かの理由:彼女がイエスにお頼み下さるためだからです。彼女はイエスの王国において、彼のお側に天地の元后として据えられています。
詩編45編(ドゥエ・ランス英訳カトリック聖書での詩編44章)では、神の王座とお側にいる女王の言及が見えます。
アヴェ・マリアおよびロザリオの祈りはイエスに断罪されるくどくどとした祈りか?
これまで取り上げた他反論と同様に、この反論は聖書をより深く考察することによって反証されます。この点においてプロテスタントの反論に反駁する最適例は多分黙示4:8です。
天にいる天使たちは昼も夜も、こう言いまくっている:「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」。繰り返し文句を含む祈りは”異教的”であるという概念なんて真実を外れたようですね。その主張がそれ以上間違っていることができないでしょう。
マタイ6:7では、イエスは繰り返し文句を含む祈りを断罪することもせず、同じ祈祷を繰り返し祈ること(例えば、5回連続して主の祈りやアヴェ・マリアの祈りを唱える)を断罪することもしていません。違います。彼は異教徒の習慣を非難しています。異教徒は、弁舌や精巧な演説で自分の偽神々を喜ばせることができたと思っていたのです。彼らが精密に正確な事・言葉・名前を唱え損ねれば、その偽”神々”が聞こえてくれないか、必要なものを覚えてくれなくなったと思っていたのです。イエスは彼らの異教を非難しています。真の神は事々をご存じとお教えくださっています。
この件においてプロテスタントの反論をつぶす点が他にあります。詩編136編(ドゥエ・ランス英訳カトリック聖書での詩編135編)では、賛美感謝の祈りが記されてくれています。その祈りが同文句―「そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」―を総計26回連続で繰り返します!
ゲツセマネの園で御父にお祈りになるイエスは、同じ祈祷を3回連続で繰り返します。マタイ26:39・マタイ26:42・マタイ26:44を参照することができます。マタイ20:29-33では、憐れんでくださいという二人の盲人の繰り返し祈りにお応えになります。
オリーブ園で苦しんでいる中、父なる神へお祈りを繰り返すイエス
見ての通り、聖書内には真の神への祈りが繰り返された事例が多く記録されています。異教徒のような「くどくど」とした祈りにはなりません。その実、アヴェ・マリアとロザリオの祈りにおけるカトリック教会のマリアへのお祈りはルカ1章でマリア自身によって予言されている:
当然、この預言を成就するのはカトリック教会しかありません。真の教会の代々の人々について語っているのです。
マリアの独特かつ汚れなき御心が聖書で特殊な注目を受けている
カトリック教会はマリアの汚れなき御心への信心を認め尊重し、普及させます。彼女は古今を通して生きた全人間の内で最たる純粋な心を持っていたのです。古い契約の箱の如く、マリアの汚れなき御心への信心は神に対して勢力があります。ある非カトリックはこの信心を非聖書的として責めます。それどころか、新約聖書に特筆された心はマリアの心のみです。他の善人や聖人の心は誰も福音におけるマリアの御心のような注目を受けていません。彼女の御心は罪によって汚されたことがないので、人間の中で独特なものです。
マリアの独特な魂も聖典に特筆がされます。
聖書において特別注意を受けたマリアの御心
マリアは神の母
そんなに多くの非カトリックは「神の母マリア」という称号に引っかかっているとは驚いたことです。マリアはエスの母だと認めるが、「神の母」とされるべきではないと論じています。マリアが神の母ではないと考えるプロテスタント教徒は、イエスが神であると信じながら、マリアが神の母であることを否定することは論理的な整合性がないのに気づいていないようです。そういう立場は実はイエス・キリストの神性を否定するのです。イエスは二本性を持つ一つの神的ペルソナである。
事実:イエス・キリストは神。聖書は沢山の個所でそう教えている(ヨハネ1:1・ヨハネ20:28・ヨハネ8:58・イザヤ9:6等)
事実:マリアはイエスの母。聖書は沢山の個所でそう教えている(ルカ1:31・マタイ1:25等)
否定できない結論:マリアは神の母。
聖書は、マリアがインマヌエル(「神は我らと共に」の意味)の母であると示しています。
また、エリサベトは明示的にマリアが主の母であると言っています。即ち、神である唯一の主、イエス・キリスト。
それだけで簡単に納得がいくでしょう。残念なことに、それでも納得していない人もいます。この点におけるプロテスタントの誤信はより徹底的に答えられ論破されなければいけないのです。
神の神的本性が永遠であり、初めがないとプロテスタント教徒には指摘されています。確かにそれは正しいです。神の本性は永遠であり確かにマリアに由来しなかったので、マリアが神の「母」だと言われるべきではないと彼らは論じています。これはこの点においてプロテスタントが出す主要な議論です。穴だらけの論法です。
この点におけるプロテスタントの誤りは、神的本性に属する事物のみが神の子のペルソナの属性とされることに端を発しています。それは人間本性に属する、または関係する事物が神の子のペルソナの属性とされ損ねることです。
神の子は真に人となられた上、人間本性に属する事物を御子の属性とし損ねることで、実際のところ彼らはイエス・キリストが同時に真の神・真の人であることを否定します。
神の子、イエス・キリストは、二本性を持つ一つの神的ペルソナである(聖なる三位一体の第二ペルソナ)。真の神でも、真の人でもある。イエス・キリストは神に結合した、あるいは霊感を受けた人ではない。違います。彼は真に人となられた真の神である。
イエスは、独特な霊感を受け、神の言(神の子)との独特な縁を持つ特別な人間だけではありませんでした。違います。彼は肉体となった神の言である。そのために、マリアが神の母であることを否定するプロテスタントのように、神的本性特有に属する事物のみを神の子の属性とするとは、イエスを二つの別ペルソナに分けるのも同然です。
5世紀にはある異端者のネストリウスはいました。彼はこの件において現代のプロテスタント教徒のように論じていました。彼からすると、マリアはTheotokos(神の母/生神女)と呼ばれるべきではなく、Christotokos(生キリスト女)とだけ呼ばれるべきでした。教会は即座にネストリウスの異端を認識し、431年にエフェソ公会議で断罪しました。ネストリウスの偽りの説は教会によって、聖書にイエスを「溶かす」と「反キリスト」的として断罪された異端だと認められました。この偽りの考えは、人間本性に関係する事物を御子の唯一のペルソナから分離することでキリストを「溶かす」のです。イエスは二つのペルソナに分割され、そして真に人となった神的ペルソナというより、イエスが神のペルソナを宿した(または神のペルソナに霊感を受けた)人だけという見解が生じてしまうのです。
マリアが神の母であることを否定することで、イエスを2ペルソナに分割するという反キリストの教理を教えることになったネストリウス 二人のキリストの崇拝を起こしてしまった
この異端では人の崇拝と二人の子の崇拝が生じてしまうのです。教会はこの異端の正体を見抜き通って、断罪しました。
イエスは二つの別ペルソナではなく、二本性を持つ『一つの神的ペルソナ』である。従って、イエスの人間本性に起こることは真にイエスの一つのペルソナにも起こるのです。そのペルソナは人間本性的にはマリアによって生まれました。それゆえ、マリアは真にイエスの母であり、神の母である。
431年、イエス・キリストが神ご自身でなく神を宿すという異端説はエフェソ公会議によって断罪 この異端説はマリアが神の母である事実に対する否定に由来
この真実を伴う意義は驚異的です。教会が常に教えてきた通り、永遠かつ御父と同等なる神の子は二つの誕生があったということです。彼は時の前に、永遠の昔から、父なる神よりお生まれになりました(ヨハネ16:28・ヨハネ8:42)。彼は時の内に、人として、御母マリアよりお生まれになりました。マリアだけが神と、三位一体の1ペルソナとこの奥底の知れないつながりを持っているのです。この真実からは、マリアが真に神の母であり、彼女の他の特権・特典全てが生まれるのです。
マリアに関する聖書的な教えについての結論
以上はカトリック教会が常に至福なる乙女マリアへの信心の重要性・必要性を認めてきた聖書的理由となります。彼女は新しいエバ、新しい御箱、純粋な器、閉じた門、神の母である。彼女に信心を持ち損ねることは、旧約時代に契約の箱を崇敬することを拒否し、あるいは御箱の後ろについて戦に進軍することを拒否する人同然です。そういった人は神の敵によって倒れて、神の民の陣から離れて行ったのです。
脚注:
[1] ドゥエ=ランス・カトリック英訳より。本個所のプロテスタント訳は少し異なる:「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」(口語訳)。プロテスタント聖書は箇所の後半で女のすえが蛇の頭を砕くと訳するが、伝統的なカトリック訳は「彼女」(その女)が蛇の頭を砕くと訳する。原文ヘブライ語に曖昧さがあるためこの問題は学問的に議論されている。しかし、古代教父の多くは伝統的なカトリック訳の「彼女」という翻訳と同意。それにしても、仮にプロテスタントの好きな翻訳にしろ、マリアが蛇に対抗する確実な「女」だという点は何も変わらない。なぜなら、プロテスタントが箇所の前半をカトリックと同じように訳するから。