キリスト教要理問答(ザ・ペニー・カテキズム)2023/05/12 『The Penny Catechism』の邦訳 信仰使徒信条- 信条の第一条- 信条の第二条- 信条の第三条- 信条の第四条- 信条の第五条- 信条の第六条- 信条の第七条- 信条の第八条- 信条の第九条- 信条の第十条- 信条の第十一条- 信条の第十二条希望祈り愛徳神の掟- 第一戒- 第二戒- 第三戒- 第四戒- 第五戒- 第六戒- 第七戒- 第八戒- 第九戒- 第十戒教会の掟秘跡- 第一の秘跡:洗礼- 第二の秘跡:堅信- 第三の秘跡:聖体- 第四の秘跡:悔悛- 第五の秘跡:終油- 第六の秘跡:品級- 第七の秘跡:婚姻美徳と悪徳について- 聖霊の七つの賜物- 聖霊の十二の実- 慈悲の行い- 真福八端- 七つの枢要罪キリスト教徒の人生訓キリスト教徒の毎日の修行- 一日の始まりにはどうするべきですか?- 食前・食後の祈祷- 一日の終わりにはどうするべきですか?付録- 告白の祈り- 痛悔の行為- 聖なるロザリオ- 神の賛美- お告げの祈り- アレルヤの祈り- 元后憐れみの母- メモラーレ- マグニフィカト- デ・プロフンディス- 朝の奉納- 願望 『信仰』 第一章 あなたを造ったのは誰ですか? 神は私をお造りになりました。 なぜ神があなたをお造りになりましたか? 私をお造りになったのは、この世に神を知り、神を愛し、神に仕え、そして来世に末永く神とともに幸せになるためです 神は誰に似せて、かたどってあなたをお造りになりましたか? 神はご自分に似せて、かたどって私をお造りになりました。 この神への類似は、あなたの体にあるか、それとも魂にありますか? この神への類似は主に私の魂にあります。 あなたの魂は、どのように神に似ていますか? 私の魂は霊であり、不滅である以上、神に似ています。 あなたの魂は不滅であると言うと、何を意味しますか? 私の魂は不滅であると言うと、魂は決して死ぬことができないという意味です。 自分の体と魂を比べると、どちらの方が一番大切にするべきものですか? 自分の魂が一番大切にするべきものです。なぜならキリストは言われた、「よし全世界をもうけても、命いのちを失えば何の役にたつだろう。」(マタイ16:26) 自分の魂を救うために、何をしなければなりませんか? 自分の魂を救うために、神を「信仰」「希望」「愛徳」によって、崇拝しなければなりません。すなわち、私は神を信じ、神に希望をかけ、心を尽くして神を愛しなければなりません。 第二章 信仰とは何ですか? 信仰とは神からの超自然的な賜物たまものです。それによって、私たちは神の啓示した事がすべて疑わずに信じることができます。 なぜ神の啓示した事をすべて信じなければなりませんか? 神は真理そのものとして、欺くことも欺かれることも不可能なので、神の啓示した事はすべて信じなければならないのです。 神の啓示した事は、どのように知ることができますか? カトリック教会の証し、教え、権威によって、神の啓示した事は知ることができます。 誰がカトリック教会へ教える神権を与えましたか? イエス・キリストは、「行け、諸国の民に教えよ」(マタイ28:19)と言われたとき、カトリック教会へ教える神権をお与えになりました。 神の啓示した事のうちで主要なのは何ですか? 神の啓示した事のうちで主要なのは使徒信条に含まれています。 使徒信条を唱えなさい。 私は天地の創造主、全能の父なる神を信じます;また、その御独おんひとり子、私たちの主イエス・キリストを信じます;主は聖霊によって宿やどり、乙女おとめマリアから生まれ;ポンティオ・ピラトの下もとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ;地獄に下り、三日目に死者のうちから復活し;天に昇って、全能の父なる神の右の座に着き;そこから生者せいしゃと死者を裁くために来られます。私は聖霊を信じ;聖なるカトリック教会;聖徒の交わり;罪の赦ゆるし;身体からだの復活;永遠の命いのちを信じます。アーメン。 使徒信条はどのように分けていますか? 使徒信条は十二節もしくは箇条に分けています。 信条の第一条 信条の第一条は何ですか? 信条の第一条は、「私は天地の創造主、全能の父なる神を信じます」と書いてあります。 神とは何ですか? 神とは、至高の『霊』であり、唯一の自存する者であり、あらゆる完全さにおいて無限な者です。 なぜ神は、「全能」と呼ばれますか? 神はすべてのことができるので、「全能」と呼ばれます。「神にできないことはない。」(マタイ19:26) なぜ神は、「天地の創造主」と呼ばれますか? 神はみことばによって、無から天地万物をお造りになったので、「天地の創造主」と呼ばれます。 神には始まりがありましたか? 神には始まりがなく、神は常にかつて在り、今も在り、これからも常に在られます。 神はどこにおられますか? 神はどこにでもおられます。 神はすべてのことを知っており、見ておられますか? 神はすべてのことを知っており、見ておられます。私たちの最も秘密な思いでもさえ。 神は身体がありますか? 神は身体からだがなく、霊なのです。 神は唯一しかいませんか? 神は唯一しかいません。 神には三つのペルソナ(位格)がありますか? 神には三つのペルソナがあります。父なる神、子なる神、聖霊なる神。 この三つのペルソナは三神ですか? この三つのペルソナは三神であるわけではなく、御父おんちちと御子おんこと聖霊は同一の神です。 一神における三位という神秘は何と呼ばれますか? 一神における三位という神秘は、「至福なる三位一体の神秘」と呼ばれます。 神秘とはどういう意味ですか? 神秘とは理性を超えるものの、神が啓示した真実という意味です。 あなたの魂には何か至福なる三位一体に似ているところがありますか? 私の魂には至福なる三位一体に似たところがあり、それは一つの神にはペルソナが三つあるとおり、私の魂にも力が三つあります。 あなたの魂の三つの力は何ですか? 私の魂の三つの力は、記憶・理解・意志です。 第二条 信条の第二条は何ですか? 信条の第二条は、「また、その御独おんひとり子、私たちの主イエス・キリストを信じます」と書いてあります。 イエス・キリストは誰ですか? イエス・キリストは私たちのために、人となられた子なる神です。 イエス・キリストは真の神ですか? イエス・キリストは真の神です。 なぜイエス・キリストは真の神ですか? イエス・キリストは父なる神と同一本性を有するので、真の神です。 イエス・キリストは常に神でしたか? イエス・キリストは常に神であって、永遠の昔から父よりお生まれになりました。 イエス・キリストは至福なる三位一体のどのペルソナですか? イエス・キリストは至福なる三位一体の「第二のペルソナ」です。 イエス・キリストは真の人ですか? イエス・キリストは真の人です。 なぜイエス・キリストは真の人ですか? イエス・キリストには人の本性があり、私たちのような体と魂を有するので、真の人です。 イエス・キリストは常に人でしたか? イエス・キリストは常に人であったわけでなく、受肉の時からのみ人となりました。 受肉とはどういう意味ですか? 受肉とは子なる神が人の本性をご自身に受け取ったという意味です。「みことばは肉体となって」(ヨハネ1:14) イエス・キリストには本性が幾つありますか? イエス・キリストには神の本性・人の本性という二つの本性があります。 イエス・キリストにはペルソナ(位格)が一つしかありませんか? イエス・キリストにはペルソナが一つしかなく、それは子なる神というペルソナです。 なぜ子なる神は人となられましたか? 子なる神は私たちを罪と地獄から贖あがない、私たちに天国への道を教えるために、人となられました。 イエスという聖なる御名は何を意味しますか? イエスという聖なる御名みなは「救い主」を意味します。(マタイ1:21) キリストという御名は何を意味しますか? キリストという御名みなは「油を注がれた方かた」を意味します。 イエス・キリストはどこにおられますか? 神として、イエス・キリストはどこにでもおられます。人となられた神として、天におられ、祭壇上の至福なる秘跡にもおられます。 第三条 信条の第三条は何ですか? 信条の第三条は、「主は聖霊によって宿やどり、乙女おとめマリアから生まれ」と書いてあります。 第三条は何を意味しますか? 第三条は子なる神が聖母マリアの胎内で聖霊の力によって、私たちのような体と魂を引き受けたという意味です。 イエス・キリストは地上の父がいましたか? イエス・キリストは地上の父がいなく、聖ヨセフはただの「保護者」あるいは「養父」でした。 救い主はどこで生まれましたか? 救い主はベツレヘムの馬小屋で生まれました。 救い主は何日に生まれましたか? 救い主はクリスマス日に生まれました。 第四条 信条の第四条は何ですか? 信条の第四条は、「ポンティオ・ピラトの下もとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ」と書いてあります。 キリストの主要な苦難は何でしたか? キリストの主要な苦難は、第一に、ゲツセマネの園での苦しみと血の汗かき;第二に、柱でのむち打たれ、茨いばらの冠のかぶり;第三に、十字架の背負い、磔刑たっけい、二人の盗賊の間での死でした。 主の主要な苦難は何と呼ばれますか? 主の主要な苦難は「イエス・キリストの受難」と呼ばれます。 救い主は何のために苦しましたか? 救い主は私たちの罪を贖あがない、私たちに永遠の命いのちを買い取ってくださるために苦しました。 なぜイエス・キリストは私たちの「贖い主」と呼ばれますか? イエス・キリストはご自分の尊い血が私たちの身代金とされたので、「贖あがない主」と呼ばれます。 救い主は何日に死なれましたか? 救い主は聖金曜日に死なれました。 救い主はどこで死なれましたか? 救い主はカルバリアの丘で死なれました。 なぜ十字を切りますか? 十字を切るのは、第一に、至福なる三位一体を心にかけさせ;第二に、子なる神が私たちのために十字架上で死んだことを思い起こさせるためです。 十字の切り方において、至福なる三位一体のことは、どのように思い起こされますか? 十字の切り方において、「父と子と聖霊の御名みなによって」という言葉で至福なる三位一体のことを思い起こされます。 十字の切り方において、キリストが私たちのために十字架上で死んでくださったことは、どのように思い起こされますか? 十字の切り方において、自分の上で切る十字の形そのものによって、キリストが十字架上で私たちのために死んでくださったことを思い起こされます。 第五条 信条の第五条は何ですか? 信条の第五条は、「地獄に下り;三日目に死者のうちから復活し」と書いてあります。 「地獄に下り」とは何を意味しますか? 「地獄に下り」とはキリストが死ぬ途端、彼の至福なる魂が「辺獄」という地獄の部分に下りて行ったという意味です。 辺獄とはどういう意味ですか? 辺獄とはキリスト以前に死去し、留置された義人の魂の休み所という意味です。 なぜ義人の魂は辺獄に留置されましたか? 義人の魂はキリストが天国を開いてくださった前に昇天できなかったので、辺獄に留置されました。 「三日目に死者のうちから復活し」という言葉は何を意味しますか? 「三日目に死者のうちから復活し」という言葉は、キリストが死んで葬られた三日間後、彼の祝福された御体おんからだを三日目に改めてよみがえらせたという意味です。 キリストは死者のうちから何日に復活しましたか? 復活祭の主日(日曜日)に死者から復活しました。 第六条 信条の第六条は何ですか? 信条の第六条は、「天に昇って、全能の父なる神の右の座に着き」と書いてあります。 「天に昇って」という言葉は何を意味しますか? 「天に昇って」という言葉は、救い主が復活から四十日後の昇天日に、体でも魂でも天に昇ったという意味です。 「全能の父なる神の右の座に着き」という言葉は何を意味しますか? 「全能の父なる神の右の座に着き」という言葉は、キリストが神として、父と同等であり、人として天の最高位置についているという意味です。 第七条 信条の第七条は何ですか? 信条の第七条は、「そこから生者せいしゃと死者を裁くために来られます」と書いてあります。 キリストはいつご再臨になりますか? キリストは最後の日に全人類を裁くために、天からご再臨になります。 キリストが裁くものは何ですか? キリストは私たちの思い、言葉、行い、不作為をお裁きになります。 キリストは悪人には何を言われますか? キリストは悪人にはこう言われる、「のろわれた者よ、私を離れて悪魔と使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」(マタイ25:41) キリストは義人に何を言われますか? キリストは義人にはこう言われる、「父に祝せられた者よ、来て、世の始めからあなたたちに備えられていた国を受けよ。」(マタイ25:34) 皆は死の時、また最後の日にも裁かれますか? 皆は死の時、また最後の日にも裁かれます。「人間は一度だけ死んでその後審判を受けると定められている」(ヘブライ9:27) 第八条 信条の第八条は何ですか? 信条の第八条は、「私は聖霊を信じ」と書いてあります。 聖霊は誰ですか? 聖霊は至福なる三位一体の「第三のペルソナ」です。 聖霊は誰から出ますか? 聖霊は父と子から出ます。 聖霊は父と子と同等ですか? 聖霊は父と子と同等であり、なぜなら聖霊が彼らと同じ主と神です。 聖霊はいつ使徒たちにお降りになりましたか? 聖霊は五旬祭に使徒たちにお降りになり、「火のような分かれた舌」(使徒2:3)という姿で現れました。 なぜ聖霊は使徒たちにお降りになりましたか? 聖霊は使徒たちの信仰を確認し、彼らを聖化し、そして教会を創立させるためにお降になりました。 第九条 信条の第九条は何ですか? 信条の第九条は、「聖なるカトリック教会;聖徒の交わり」と書いてあります。 カトリック教会とは何ですか? カトリック教会とは一つの頭かしらのもとに全信仰者の一致です。 カトリック教会の頭は誰ですか? カトリック教会の頭かしらは私たちの主イエス・キリストです。 教会は見える頭が地上にいますか? 教会はキリストの代理人であるローマ司教という見える頭かしらが地上にいます。 なぜローマ司教が教会の頭となりますか? ローマ司教は、キリストが教会の頭かしらに任命した聖ペトロの継承者なので、教会の頭となります。 どうしてキリストが聖ペトロを教会の頭に任命したことは知っていますか? キリストが聖ペトロを教会の頭かしらに任命したことは知っているのは、キリストが彼に言われた、「あなたはペトロである。私はこの岩の上に私の教会を立てよう。地獄の門もこれに勝てぬ。私はあなたに天の国のかぎを与える。」(マタイ16:18-19) ローマ司教は何と呼ばれますか? ローマ司教は「教皇」あるいは「パパ」と呼ばれます。パパは「父」を表します。 教皇は全キリスト教徒の霊的な父ですか? 教皇は全キリスト教徒の霊的な父です。 教皇は全キリスト教徒の司牧者であり教師ですか? 教皇は全キリスト教徒の「司牧者」と「教師」です。なぜならキリストは聖ペトロに、「私の小羊を牧せよ。私の羊を牧せよ。」と言われたとき、キリストが彼をその羊の群れ全部の牧者にされました。また、彼の「信仰」が無くならないよう祈り、兄弟たちの心を「固めよ」と命じられました。(ヨハネ21:15-17;ルカ22:32) 教皇は不可謬ですか? 教皇は不可謬です。 教皇が不可謬であるというと何を意味しますか? 教皇が不可謬であるというと、それは教皇は全キリスト教徒の「司牧者」と「教師」として、全教会が持つための信仰または道徳に関する教理を定義するとき、彼は誤ることができないという意味です。 私たちがキリストの教会を知れるような特徴がありますか? 私たちがキリストの教会が知れるような特徴が四つあります。教会は唯一であり、聖であり、カトリックであり、使徒的です。 教会はどのように唯一ですか? 教会は唯一の「信仰」について全員同意で、同じ「生贄いけにえ」と「秘跡」があり、一つの頭かしらのもとに全員一致なので、教会は唯一です。 教会はどのように聖ですか? 教会は聖なる教理を教え、誰にも聖になる手段を提供し、その多数千人の子供の優れた聖性で抜群なので、教会は聖です。 カトリックという単語は何を意味しますか? カトリックという単語は「普遍」を意味します。 教会はどのようにカトリックあるいは普遍ですか? 教会は古往今来存在し、万国を教え、万人の唯一の「救いの箱舟」であるので、カトリックあるいは普遍です。 教会はどのように使徒的ですか? 教会は使徒の教理と聖伝を保ち、そしてその「司牧者たち」の連綿不断の継承を通してその「品級」と「使命」を得るので、教会は使徒的です。 教会は教えに誤ることができますか? 教会は信仰と道徳に関して誤ることができません。なぜなら教会は両方における私たちの不可謬な導き手です。 教会は信仰と道徳に関して誤ることができません。なぜなら教会は両方における私たちの不可謬な導き手です。 教会が教えに誤りえないことは知っているのは、キリストが、地獄の門が決して教会に勝てず,聖霊はすべてのことを教会に教え,ご自身が日々世界の終わりまでも教会と共におられると約束しました。(マタイ16:18;ヨハネ14:16-26;マタイ28:20) 「聖徒の交わり」とはどういう意味ですか? 「聖徒の交わり」とは天にも地上にも煉獄にもいる教会全員がイエス・キリストにおける一体として、お互いに交わり合っているという意味です。 地上の信者は、どのように交わり合っていますか? 地上の信者はお互いに、同じ信仰を公言し、同じ権威に従い、祈りと善行で助け合うことによって、交わり合っています。 私たちは天にいる聖人に、どのように交わりをしていますか? 私たちは天にいる聖人に、栄化された教会員として彼らを敬い、また彼らに祈り、彼らに私たちのために祈ってもらうことによって、交わりをしています。 私たちは煉獄にいる魂に、どのように交わりをしていますか? 私たちは煉獄にいる魂に、祈りと善行で彼らを助けることによって、交わりをしています。「罪から解き放たれるよう死者のために祈ることは聖く健全な思いである。」(2マカバイ12:46(ドゥエ・ランス英訳):"It is a holy and wholesome thought to pray for the dead, that they may be loosed from their sins.") 煉獄とは何ですか? 煉獄とは死後罪によって魂が一時的に苦しむ場所です。 どんな魂が煉獄に行くのですか? 煉獄に行く魂は小罪のうちにこの世を去って逝った者、または有罪が赦ゆるされたのに、その罪による有限の罰の負債はまだ完全に支払っていない者です。 有限の罰とは何ですか? 有限の罰とはこの世であれ来世であれ、終わりに繋がる処罰です。 煉獄のあることはどのように証明しますか? 教会の一定教導および聖書の教理から、煉獄があることは証明します。聖書は、神が各人の行為に応じて報い;清くない者が決して天に入れなく;そしてある人が「火を通るようにして」救われると宣言します。(マタイ16:27;黙示21:27;1コリント3:15) 第十条 信条の第十条は何ですか? 信条の第十条は、「罪の赦ゆるし」と書いてあります。 「罪の赦し」とはどういう意味ですか? 「罪の赦ゆるし」とは、キリストが罪を赦ゆるす力をその教会の「司牧者たち」にお任せになったという意味です。 (ヨハネ20:23) 罪はどんな手段によって赦ゆるされますか? 罪は主に「洗礼」と「悔悛かいしゅん」の秘跡によって赦ゆるされます。 罪とは何ですか? 罪とは神の律法に反するあらゆる思い、言葉、行い、不作為によって、神に対する違反です。 罪には何種類ありますか? 罪には「原罪」と「自罪」との二種類があります。 原罪とは何ですか? 原罪とは全人類の起源であり、頭かしらであったアダムから受け継いだ罪責と汚れです。 アダムの犯した罪は何ですか? アダムの犯した罪は禁断の果実を食べたときの不従順の罪です。 全人類は原罪の罪責と汚れにかかりましたか? 全人類は原罪の罪責と汚れにかかったが、至福なる乙女おとめは彼女の神的御子おんこの功徳くどくによって、原罪の罪責も汚れもなく御宿おんやどりになられました。 至福なる聖母のこの特典は何と呼ばれますか? 至福なる聖母のこの特典は、「無原罪の御宿おんやどり」と呼ばれます。 自罪とは何ですか? 自罪とは私たち自身の犯したあらゆる罪です。 自罪はどのように分かれていますか? 自罪は「大罪」と「小罪」に分かれています。 大罪とは何ですか? 大罪とは神に対する大きな犯罪です。 なぜ大罪と呼ばれますか? 魂を殺し、地獄に値する罪なので、大罪と呼ばれます。 大罪はどのように魂を殺しますか? 大罪は魂の超自然的な命いのちである聖化恩寵おんちょうを奪って、魂を殺します。 大罪に陥ることは大悪ですか? 大罪に陥ることはあらゆる悪の中では最悪なものです。 大罪の状態のうちに死んだ者はどこに行きますか? 大罪のうちに死んだ者は永遠に地獄に行きます。 小罪とは何ですか? 小罪とは魂を殺さないのに、神を不愉快にさせ、それにしばしば大罪に繋がる犯罪です。 なぜ小罪と呼ばれますか? 大罪よりも容易に赦免されるため、小罪と呼ばれます。 第十一条 信条の第十一条は何ですか? 信条の第十一条は、「身体からだの復活」と書いてあります。 「体の復活」というと何を意味しますか? 「身体からだの復活」というと、審判の日には皆同じ体でよみがえるという意味です。 第十二条 信条の第十二条は何ですか。 信条の第十二条は、「永遠の命いのちを信じます」と書いてあります。 「永遠の命」というと何の意味をしますか? 「永遠の命いのち」というと、善人が天国の栄光と幸福のうちに永遠に生きるという意味です。 天国の栄光と幸福とは何ですか? 天国の栄光と幸福とは末永く神を拝見し、愛し、楽しむことです。 天国の幸福について、聖書には何を書いてありますか? 聖書には天国の幸福について、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心にまだ思い浮かばず、神がご自分を愛する人々のために準備された」(1コリント2:9)と書いてあります。 悪人も永遠に生きるのではありませんか? 悪人も永遠に生き、永遠に地獄の火の中で罰せられます。 『希望』 第三章 信仰のみは私たちを救いますか? 信仰のみは、善行がなければ救いません。「希望」と「愛徳」とも必要です。 希望とは何ですか? 希望とは神から与えられた超自然的な賜物たまものです。それによって、私たちは神に要求されることをすれば、永遠の命いのちと、その命いのちを得るための必要なすべての手段をお与えくださると固く信頼します。 なぜ神に希望をかけなければなりませんか? 神は無限善良であり、無限の力を持っており、約束に対して忠実であるから、神に希望をかけなければなりません。 私たちは自ら善行をして、救いに進むことができますか? 私たちは自ら善行をして、救いに進むことができません。神の恩寵おんちょうによる助けは必要なものです。 恩寵(恵み)とは何ですか? 恩寵おんちょうとは神の超自然的な賜物たまものです。私たちの聖化と救いのために自由に与えられるものです。 神の恩寵はどのように手に入れるべきですか? 神の恩寵おんちょうを手に入れるには主に祈りと聖なる秘跡によるべきです。 祈り 祈りとは何ですか? 祈りとは神に心と思いを差し挙げることです。 神に思いと心の差し挙げ方は何ですか? 神に思いと心の差し挙げ方は神のことを考え、神を礼拝し、賛美し、感謝し、また魂と体のためにあらゆる祝福を請うことに通します。 神のことも語ることも考えずに祈る者は良く祈りますか? 神のことも語ることも考えずに祈る者は良く祈りません。むしろ、もし注意散漫は故意なら、神を怒らせます。 すべての祈りの中で最善なのは何ですか? 最善の祈りは「私たちの父よ」あるいは「主の祈り」です。 主の祈りを作ったのは誰ですか? イエス・キリストご自身が主の祈りをお作りになりました。 主の祈りを唱えなさい。 天におられる私たちの父よ、御名みなが聖とされますように。御国みくにが来ますように。御心みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。私たちが人を赦ゆるすとおり、私たちの罪もお赦ゆるしください。私たちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください。アーメン。 主の祈りでは「私たちの父」と呼ばれるのは誰ですか? 主の祈りでは神は「私たちの父」と呼ばれます。 なぜ神は「私たちの父」と呼ばれますか? 神は「私たちの父」と呼ばれるのは、神は全キリスト教徒の父であり、聖なる洗礼によって、私たちを神の子供にしてくださったのです。 神は全人類の父でもありますか? 神は全人類の父でもあります。なぜなら彼ら皆を造り、皆を愛し、保存しておられます。 なぜ「私」の父でなく、「私たち」の父と言います? 「私」の父でなく、「私たち」の父と言うのは、皆兄弟として、自分のためだけでなく、他人のためにも祈るべきです。 「御名が聖とされますように」というと、何のために祈りますか? 「御名みなが聖とされますように」というと、神がすべての被造物に知られ、愛され、仕えられるように祈ります。 「御国が来ますように」というと、何のために祈りますか? 「御国みくにを来ますように」というと、神の恩寵おんちょうによって、神はこの世に来られ、皆の心で支配しており、私たち全員を神の天の御国みくにに連れていってくださるように祈ります。 「御心が天に行われるとおり、地にも行われますように」というと、何のために祈りますか? 「御心みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」というと、神の恩寵おんちょうによって、私たちが天にいる福者のように、すべてのことにおいて神の御心みこころを行えるようにさせると祈りします。 「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」というと、何のために祈りますか? 「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」というと、神は私たちの魂と体のための必要なものがすべて毎日お与えくださるように祈ります。 「私たちが人を赦すとおり、私たちの罪もお赦しください」というと、何のために祈りますか? 「私たちが人を赦ゆるすとおり、私たちの罪もお赦ゆるしください」というと、私たちは他人が私たちを傷つくことを赦ゆるしてあげるとおり、神は私たちの罪を赦ゆるしてくださるように祈ります。 「私たちを誘惑に陥らせず」というと、何のために祈りますか? 「私たちを誘惑に陥らせず」というと、神は私たちに誘惑に負けない恩寵おんちょうをお与えくださるように祈ります。 「悪からお救いください」というと、何のために祈りますか? 「悪からお救いください」というと、神は私たちを魂と体に関するすべての悪から解放してくださるように祈ります。 天使と聖人に祈ってくださることを頼むべきですか? 天使と聖人と祈ってくださることは頼むべきです。なぜなら彼らは私たちの友であり兄弟であり、なお彼らのお祈りは神に対する大きな力が持っています。 天使と聖人は地上の状況が知っているのは、どのように示せますか? 天使と聖人は地上の状況が知っているのは、キリストのみことばから示せます。「悔い改める一人の罪人つみびとのために、神の天使たちは喜びにわくのである。」(ルカ15:10) 教会が用いている至福なる乙女への主なお祈りは何ですか? 教会が用いている至福なる乙女おとめへの主要なお祈りは「アヴェ・マリアの祈り」です。 アヴェ・マリアの祈りを唱えなさい。 アヴェ、マリア、恵みに満ちた方かた、主はあなたとともにおられます。 あなたは女のうちで祝福され、 ご胎内の御子おんこイエスも祝福されています。 神の母聖マリア、私たち罪人つみびとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。 アヴェ・マリアの祈りの前半を作ったのは誰ですか? 天使ガブリエルと聖霊の霊感による聖エリサベトはアヴェ・マリアの祈りの前半を作りました。 アヴェ・マリアの祈りの後半を作ったのは誰ですか? 神の教会は聖霊の導きによって、アヴェ・マリアの祈りの後半を作りました。 なぜアヴェ・マリアの祈りをたびたび唱えるべきですか? 神の子の受肉が思い浮かべるために、また「神の母」である至福なる聖母を敬うやまうために、アヴェ・マリアの祈りをたびたび唱えるべきです。 アヴェ・マリアの祈りをたびたび唱えるべきなのは他の理由がありますか? アヴェ・マリアの祈りをたびたび唱えるべきなのは他の理由があります。それは至福なる聖母が私たち罪人つみびとのために、いつでも、特に死を迎える時にお祈りくださるように頼むことです。 なぜカトリック教会は至福なる乙女へ大きな信心を示していますか? カトリック教会は至福なる乙女おとめへ大きな信心を示しているのは、彼女が「神の汚れなき母」なのです。 至福なる乙女はどのように神の母ですか? イエス・キリスト、すなわち聖母から人として生まれた子は人ばかりではなく、しかし真の神でもあるので、至福なる乙女おとめは神の母です。 至福なる乙女は私たちの母でもありますか? 至福なる乙女おとめは私たちの母でもあります。なぜなら私たちはイエスの兄弟として、マリアの子供です。 『愛徳』 第四章 神の掟 愛徳とは何ですか? 愛徳とは神から与えられた超自然的な賜物たまものです。それによって、何よりも神を愛し、隣人を自分として神のために愛します。 なぜ神を愛しなければなりませんか? 神はご自身のうちに無限に善であり、私たちに対しても無限に善であるからこそ、神を愛しなければなりません。 神を愛することはどのように示せますか? 神を愛することは、神の掟おきてを守ることを通します。キリストはいわく、「あなたたちは私を愛するなら私のおきてを守るだろう」(ヨハネ14:15) 掟は何戒ありますか? 掟おきては十戒あります。 十戒を唱えなさい。 私は主、あなたの神、エジプトの地、奴隷の家から、あなたを連れ出した神である。 私のほかに神があってはならない。刻んだ像を作ってはならぬ、高く天にあるもの、低く地にあるもの、地の下にある水の中にあるものの、どんな像をも作ってはならない。それらを礼拝してはならぬ、それらに仕えてもならない。(ドゥエ・ランス英訳より) あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。 安息日を心にとどめ、これを聖とせよ。 あなたの父母を敬うやまえ。 殺してはならない。 姦淫かんいんしてはならない。 盗んではならない。 隣人に関して偽証してはならない。 隣人の妻を欲してはならない。 隣人の財産を欲してはならない。 十戒を与えたのは誰ですか? 神は旧法で十戒をモーセにお与えになり、新法でキリストはそれをご確認になりました。 第一戒 第一戒は何ですか? 第一戒は、「私のほかに神があってはならない。刻んだ像を作ってはならぬ、高く天にあるもの、低く地にあるもの、地の下にある水の中にあるものの、どんな像をも作ってはならない。それらを礼拝してはならぬ、それらに仕えてもならない」です。 第一戒には何を命じられていますか? 第一戒には、唯一の、真の、生ける神を「信仰」「希望」「愛徳」「宗教」によって崇拝するように命じられています。 信仰に対する罪とは何ですか? 信仰に対する罪とはすべての偽宗教、いかなる信仰箇条に対する故意の疑惑・不信仰・否定、および教会の教理に対する有責の不知です。 私たちは、どのように自分を信仰喪失の危険にさらしますか? 私たちは自分を信仰喪失の危険にさらすのは、霊的義務を怠けること、悪い本を読むこと、非カトリック学校に通っていること、偽宗教の礼拝式や祈りに参加することに通します。 希望に対する罪とは何ですか? 希望に対する罪とは「絶望」と「うぬぼれ」です。 宗教に対する主な罪とは何ですか? 宗教に対する主な罪とは偽り神々もしくは偶像の崇拝すること、かつ神のみに属する尊敬をいかなる被造物にも与えることです。 第一戒によれば、聖像作りは禁じていますか? 第一戒によれば、聖像作りは禁じていなく、むしろ偶像作りは禁じています。すなわち、神扱いで崇あがめ敬うやまうための像を作ることは禁じています。 第一戒によれば、悪魔との取引と迷信的な習慣は禁じていますか? 第一戒によれば、悪魔との取引と迷信的な習慣は全部禁じています。例えば、霊能者や占い師と相談し、護符や前兆、夢占い、かつ同類の愚かな物を信頼すること。 涜聖とシモニア(聖職売買)の罪もすべて第一戒によって禁じられていますか? 涜聖とくせいとシモニアの罪もすべて第一戒によって禁じられています。 天使と聖人に神とする尊敬や崇拝を挙げることは禁じられていますか? 天使と聖人に神とする尊敬や礼拝を挙げることは禁じられています。これは神のみに属することです。 天使と聖人にはどんな尊敬や崇拝を払うべきですか? 天使と聖人には劣る尊敬や崇拝を払うべきです。これは神のしもべであり特別な友人である彼らへの礼儀です。 聖遺物や十字架像や聖画にはどんな尊敬を払うべきですか? 聖遺物や十字架像や聖画には相対的な尊敬を払うべきです。なぜならキリストとその聖人に関連し、彼らの記念物ためです。 聖遺物や聖像に祈りますか? 聖遺物や聖像に祈りません。なぜなら私たちを見ることも、聞くことも、助けることもできません。 第二戒 第二戒は何ですか? 第二戒は、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」です。 第二戒には何を命じられていますか? 第二戒には、神のことやあらゆる聖なる人と聖なる物のことを畏敬の念で語り、正当な誓約や誓いを守るように命じられています。 第二戒によれば、何を禁じていますか? 第二戒によれば、すべての偽りの、軽率な、不正な、不要な誓いは禁じています。それに冒涜・ののしり・卑罵語も禁じています。 誓いを立てることには正当な場合がありますか? 誓いを立てることは神の名誉、あるいは自分や隣人の利益に必要であれば正当です。 第三戒 第三戒は何ですか? 第三戒は、「安息日を心にとどめ、これを聖とせよ」です。 第三戒には何を命じられていますか? 第三戒には主日(日曜日)を聖とするように命じられています。 主日を聖とすることはどのように行いますか? 主日を聖とすることは、ミサを拝聴し、肉体労働を休むことに通します。 なぜ肉体労働を休むように命じられていますか? 肉体労働を休むように命じられているのは、祈り、秘跡を訪ね、教導を聴き、良い本を読む時間と機会があるためです。 第四戒 第四戒は何ですか? 第四戒は、「あなたの父母を敬うやまえ」です。 第四戒には何を命じられていますか? 第四戒には両親を愛し、敬畏し、それに罪以外のことで親に従うように命じられています。 私たちは両親にしか従わないように命じられていますか? 私たちは両親だけでなく、司教と司牧者たちにも、民政当局にも、正当な目上にも従うように命じられています。 私たちは両親の欲しい物のために援助する義務がありますか? 私たちは両親の欲しい物のために援助する義務があります。霊的な事でも俗事でもあります。 私たちは正義に縛られて、司牧者たちの応援に貢献する義務がありますか? 私たちは正義に縛られて、司牧者たちの応援に貢献する義務があります。聖パウロはいわく、「主は、福音をのべる人々が福音で生きるようにと定められた」(1コリント9:14) 親は自分の子供に対する義務は何ですか? 親は自分の子供に対する義務は子供を養い、子供を指導し矯正し、良いカトリックの教育を施すことです。 主人や女主人や他の目上などの義務は何ですか? 主人や女主人や他の目上などの義務は、ちゃんと責任下の目下の世話をし、宗教的な義務を行えさせることです。 第四戒によれば、何を禁じていますか? 第四戒によれば、私たちの親や正当な目上を軽蔑し、彼らに対して頑固になり、不従順になることは全部禁じています。 「秘密結社」に所属していることは罪深いですか? 教会や国家に陰謀を企てる「秘密結社」や、秘密性に基づいて教会に断罪された結社に所属することは罪深いです。聖パウロはいわく、「全ての人は上の権威者に服従せよ。権威に背く者は神の定めに背く。背く者は神のさばきを招く。」(ローマ13:1,2) 第五戒 第五戒は何ですか? 第五戒は、「殺してはならない」です。 第五戒によれば、何を禁じていますか? 第五戒によれば、すべての故意の殺人・戦い・喧嘩・傷つく言葉、そしてつまずきや悪い模範は禁じています。 第五戒によれば、怒りは禁じていますか? 第五戒によれば、怒りは禁じています。なおさら、憎悪と復讐も禁じています。 なぜつまずきと悪い模範は第五戒によって禁じられていますか? つまずきと悪い模範は隣人の魂を被害と霊的死亡に繋がるので、第五戒によって禁じられています。 第六戒 第六戒は何ですか? 第六戒は「姦淫かんいんしてはならない」です。 第六戒によれば、何を禁じていますか? 第六戒によれば、他人の妻あるいは夫との不純の罪はすべて禁じています。 第六戒によれば、聖なる純潔に反することは何でも禁じていますか? 第六戒によれば、外見・言葉・行動どれにおいても、聖なる純潔に反することは禁じています。 第六戒によれば、下品な劇やダンスは禁じられていますか? 第六戒によれば、下品な劇やダンスは禁じられています。それを観ることは罪深いです。 第六戒によれば、下品な歌・本・絵は禁じていますか? 第六戒によれば、下品な歌・本・絵は禁じています。なぜならそれは魂に対する最も危険なものであり、大罪に落ち繋がります。 第七戒 第七戒は何ですか? 第七戒は、「盗んではならない」です。 第七戒によれば、何を禁じていますか? 第七戒によれば、他人のものを不正に取り上げること、または持っていることはすべて禁じています。 第七戒によれば、売買における不正行為はすべて禁じられていますか? 第七戒によれば、売買における不正行為はすべて禁じられています。その他にも隣人への不正に扱う方法はすべて禁じられています。 不正に入手した物は返す義務がありますか? できれば不正に入手した物は返す義務があります。返さなければ罪が赦されられません。借金も返さなければなりません。 使用人が主人の時間や財産を浪費することは不誠実なことですか? 使用人が主人の時間や財産を浪費することは不誠実です。なぜなら自分のものでないものを浪費することです。 第八戒 第八戒は何ですか? 第八戒は、「隣人に関して偽証してはならない」です。 第八戒によれば、何を禁じていますか? 第八戒によれば、あらゆる偽証・軽率判断・嘘は禁じています。 第八戒によれば、誹謗中傷は禁じられていますか? 第八戒によれば、誹謗中傷は禁じられています。または悪い噂を流すこと、隣人の人格を傷つけるような言葉も禁じられています。 もし悪口を言って隣人を傷つけたら、義務に縛られて何をしなければなりませんか? もし悪口を言って隣人を傷つけたら、できる限り償いに彼の評判を直す義務があります。 第九戒 第九戒は何ですか? 第九戒は、「隣人の妻を欲してはならない」です。 第九戒によれば、何を禁じていますか? 第九戒によれば、不純な考えや欲望への故意の承諾と、肉の変則な動きにおける故意の快楽はすべて禁じています。 一般的に、第六戒と第九戒の破りに繋がる罪は何ですか? 一般的に、第六戒と第九戒の破りに繋がる罪は暴食・泥酔・不節制、および無為・悪友・祈りの怠慢です。 第十戒 第十戒は何ですか? 第十戒は、「隣人の財産を欲してはならない」です。 第十戒によれば、何を禁じていますか? 第十戒によれば、隣人の財産や利益に対する妬ましい欲張りな思いと不当な欲望は禁じています。 第五章 教会の掟 教会に従う義務がありますか? 教会に従う義務があります。なぜならキリストは教会の司牧者たちに言われた、「あなたたちの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人であり、あなたたちを拒む人は、私を拒む人である。」(ルカ10:16) 教会の主要な掟は何ですか? 教会の主要な掟おきて: 主日(日曜日)と義務の聖日を、ミサ拝聴と肉体労働休止によって聖とすること。 教会に定められた大斎(断食)・小斎の日を守ること。 少なくとも一年に一度、告解を訪ねること。 少なくとも一年に一度、至福なる秘跡を拝領すること。それと復活祭のころにして。 司牧者たちの支持に貢献すること。 一定の親等内で結婚しないこと。禁断の時期にも婚姻挙行をしないこと。 教会の第一の掟は何ですか? 教会の第一の掟おきては、「主日(日曜日)と義務の聖日を、ミサ拝聴と肉体労働休止によって聖とすること」です。 イングランドとウェールズでは祝われている義務の聖日はどれですか? イングランドとウェールズでは祝われている義務の聖日はクリスマス日、公現祭、昇天祭、聖体の祝日、聖ペトロと聖パウロの祭日、聖母の被昇天の祝日、諸聖人の日です。 主日と義務の聖日にはミサを怠けて拝聴しないことは大罪ですか? 主日と義務の聖日にはミサを怠けて拝聴しないことは大罪です。 親や主人や女主人は、自分の世話になる者が主日と義務の聖日にはミサを拝聴させる義務がありますか? 親や主人や女主人は、自分の世話になる者が主日と義務の聖日にはミサを拝聴させる義務があります。 教会の第二の掟は何ですか? 教会の第二の掟おきては、「教会に定められた大斎(断食)・小斎の日を守ること」です。 大斎の日とは何ですか? 大斎の日とは完全な食事を食べるのが一食しか許されない日です。 大斎の日はどれですか? 大斎の日とは「灰の水曜日」と「聖金曜日」です。 小斎の日とは何ですか? 小斎の日とは食肉の摂取が禁じられている日です。 小斎の日はどれですか? イングランドとウェールズでは灰の水曜日と聖金曜日は小斎の日です。 なぜ教会は私たちに大斎と小斎をするように命じていますか? 教会は私たちに大斎と小斎をするように命じているのは、肉体苦行くぎょうし、自分の罪につき神を満たすためです。 教会の第三の掟は何ですか? 教会の第三の掟おきては、「少なくとも一年に一度告解を訪ねること」です。 子供はいつになると告解を訪ねる義務がありますか? 子供は理性を使えてきて、大罪を犯すことができると告解を訪ねる義務があります。 一般的に、子供はいつ理性を使えてくるはずですか? 一般的に、子供は七歳で理性を使えてくるはずです。 教会の第四の掟は何ですか? 教会の第四の掟おきては、「少なくとも一年に一度、至福なる秘跡を拝領すること。それも復活祭のころにして」です。 キリスト教徒はいつになると至福なる秘跡を拝領する義務がありますか? キリスト教徒は御体おんからだとただのパンを区別できるになり、十分教導されたと判断されると、至福なる秘跡を拝領する義務があります。 教会の第五の掟は何ですか? 教会の第五の掟おきては、「司牧者たちの支持に貢献すること」です。 宗教の支持に貢献することは義務ですか? できるだけ宗教の支持に貢献することは義務です。それは神が正しく敬われ礼拝され、神の教会の王国が広げられるためです。 教会の第六の掟は何ですか? 教会の第六の掟おきては、「一定の親等内で結婚しないこと。禁断の時期にも婚姻挙行をしないこと」です。 挙行して婚姻することが禁じられている時期はどれですか? 特別許可なしで挙行して婚姻することが禁じられている時期は待降節の第一の日曜日から、クリスマス日の後までと、灰の水曜日から復活祭の主日の後までです。 『秘跡』 第八章 秘跡とは何ですか? 秘跡とは内面的恩寵おんちょうの外面的なしるしです。秘跡がイエス・キリストに定められ、それをもって私たちの魂へと恩寵おんちょうを与えられるものです。 秘跡は必ず恩寵を与えますか? 秘跡はわきまえて受ける者には必ず恩寵おんちょうを与えます。 秘跡はどこから恩寵を与える力が受け持ってありますか? 秘跡はキリストの尊い血の功徳くどくから恩寵おんちょうを与える力が受け持ってあります。その功徳くどくを私たちの魂につけてくださいます。 秘跡の受けることは強く望むべきですか? 秘跡の受けることは強く望むべきです。なぜならそれは私たちの主要な救済方法です。 秘跡によって魂には霊印が与えられますか? 「洗礼」「堅信」「品級」の秘跡によって霊印が魂に与えられます。 霊印とは何ですか? 霊印とは魂に刻まれた消えない「しるし」または「証印」です。それゆえ、特定の霊印を与えた秘跡は繰り返すことができません。 秘跡は幾つありますか? 秘跡は七つあります。「洗礼」「堅信」「聖体」「悔悛かいしゅん」「病者の塗油」「品級」「婚姻」。 第一の秘跡 洗礼とは何ですか? 洗礼とは私たちを原罪から洗い清め、「キリスト教徒」「神の子供」「教会の成員」にする秘跡です。 洗礼は自罪でも赦しますか? 洗礼は自罪も赦ゆるします。洗礼は相応な意気で受けられたら、その罪による処罰とも赦ゆるします。 洗礼の通常執行者は誰ですか? 洗礼の通常執行者は司祭だが、司祭不在の場合、必要ならば誰でも洗礼を授けることができます。 洗礼の授け方は何ですか? 洗礼の授け方は、子供の頭あたまに水をかけ、同時に次の言葉を唱えます。「私は父と子と聖霊の御名みなによって、あなたに洗礼を授けます。」 洗礼式では私たちは何を約束しますか? 洗礼式では私たちは悪魔とそのすべての業や壮麗を放棄することを約束します。 洗礼は救いのために必要ですか? 洗礼は救いのために必要です。なぜならキリストはいわく「水と霊によって生まれぬ者は天の国に入れぬ。」(ヨハネ3:5) 第二の秘跡 堅信とは何ですか? 堅信とは聖霊を受ける秘跡です。それをもって私たちは強い完璧なキリスト教徒とイエス・キリストの兵士になるものです。 堅信の秘跡の通常執行者は誰ですか? 堅信の通常執行者は司教です。 司教はどのように堅信の秘跡を授けますか? 司教は、受堅者に聖霊がお降りくださるように祈り、彼に按手して額に聖香油で十字を切ると同時に、ある言葉を唱えることによります。 堅信式で使われる言葉は何ですか? 堅信式で使われる言葉は次のように:「私はあなたに十字架のしるしを切り、救いの聖香油で堅信を授けます。父と子と聖霊の御名みなによって。アーメン。」 第三の秘跡 聖体の秘跡とは何ですか? 聖体の秘跡とはイエス・キリストの真の御体おんからだ・御血おんちであり、かつ彼の魂・神性と共に、パンとぶどう酒の外観の下に装っているものです。 パンとぶどう酒はどのようにキリストの御体と御血に変化されますか? パンとぶどう酒は神の力によって、キリストの御体おんからだと御血おんちに変化されます。神には何も不可能なことや難しいことがありません。 パンとぶどう酒は、いつキリストの御体と御血に変化されますか? パンとぶどう酒は、ミサ聖祭中に司祭がイエス・キリストの定められた聖別の言葉を唱えると、キリストの御体おんからだと御血おんちに変化されます。 なぜキリストはご自身を聖体でお与えくださいましたか? キリストはご自身を聖体で私たちの魂の命いのちと糧になるようにお与えくださいました。「私を食べる者も私によって生きる。このパンを食べる者は永遠に生きる。」(ヨハネ6:57, 58) 単形態(御体のみ/御血のみ)で拝領すると、キリストは全体全部で受領されますか? キリストはどちらの形態のみでも全体全部で受領されます。 至福なる秘跡をわきまえて拝領するための要件は何ですか? 至福なる秘跡をわきまえて拝領するために、恩寵おんちょうの状態のうちに、定められた断食を守るべきです。水は断食を破るわけではありません。 恩寵の状態のうちとは何ですか? 恩寵おんちょうの状態のうちとは大罪から放れており、神に喜んでいることです。 大罪の状態のうちに聖体拝領することは大きな罪ですか? 大罪の状態のうちに聖体拝領することは大きな罪です。「わきまえずに飲食する者は、自分自身へのさばきを飲食することである。」(1コリント11:29) 至福なる聖体は秘跡だけですか? 至福なる聖体は秘跡だけでなく、生贄いけにえでもあります。 生贄とは何ですか? 生贄いけにえとは神がすべての物の主権者である証しとして、司祭によって犠牲を神のみに捧げることです。 新しい律法の生贄は何ですか? 新しい律法の生贄いけにえはミサ聖祭です。 ミサ聖祭とは何ですか? ミサ聖祭とはイエス・キリストの御体おんからだと御血おんちを生贄いけにえとして捧げる儀式です。その御体おんからだと御血おんちがパンとぶどう酒の姿で本当に祭壇上にあり、生者せいしゃと死者のために神へと捧げられます。 ミサ聖祭の生贄と十字架上の生贄とは同じものですか? ミサ聖祭の生贄いけにえと十字架上の生贄いけにえとは同じものです。なぜなら、ご自分を出血犠牲としてその天父に捧げたキリストは、今までもご自分を祭壇上で血みどろでない形で、彼の司祭の奉仕によって捧げ続けます。 ミサの生贄は何のために捧げられますか? ミサの生贄いけにえの捧げられるのは四つのためです。第一に、神に最高名誉と栄光を差し上げること;第二に、神にすべての恩恵に感謝すること;第三に、神を私たちの罪について満たし、悔悛かいしゅんの恩寵おんちょうを得ること;第四に、イエス・キリストに通してその他もろもろの恩寵おんちょうや祝福を得ることです。 ミサは私たちの主の受難と死去の記念でもありますか? ミサは私たちの主の受難と死去の記念でもあります。なぜならキリストは最後の晩餐で言われた、「私の記念としてこれを行え。」(ルカ22:19) 第四の秘跡 悔悛の秘跡とは何ですか? 悔悛かいしゅんとは洗礼後に犯した大罪であれ小罪であれ罪が赦ゆるされる秘跡です。 悔悛の秘跡は魂の中に神の恩寵を増やしますか? 罪の赦ゆるしの他に、悔悛かいしゅんの秘跡は魂の中に神の恩寵おんちょうを増やします。 私たちの主はいつ悔悛の秘跡を制定されましたか? 私たちの主はその使徒たちに息を吹きかけて、罪を赦ゆるす力をお与えくださる時、悔悛かいしゅんの秘跡を制定されました。彼は言われた、「あなたたちが罪をゆるす人にはその罪がゆるされ」(ヨハネ20:23) 司祭はどのように罪を赦しますか? 司祭は赦罪しゃざいの言葉を唱えると、神の力によって罪を赦ゆるします。 赦罪の言葉は何ですか? 赦罪しゃざいの言葉は次のように:「私はあなたを罪から赦罪しゃざいします。父と子と聖霊の御名みなによって。」 悔悛者側には赦しの条件が何か要求されますか? 悔悛かいしゅん者側には赦ゆるしの条件が三つ要求されます。それは、「痛悔」「告解」「補贖ほしょく」です。 痛悔とは何ですか? 痛悔とは自分の罪に対する心底の悲しみで、改心への固い意図とともに持っていることです。なぜなら、自分の罪によっていと善良な神を怒らせてしまいました。 改心への固い意図とは何ですか? 改心への固い意図とは罪だけでなく、罪の危険なきっかけも神の恩寵おんちょうによって避けようと決心です。 自分の罪に対する心底の悲しみは、どのように獲得できますか? 自分の罪に対する心底の悲しみは、それを得るように祈れば、それに導くような反省を用いれば獲得できます。 神に関するどのような反省が自分の罪に対する悲しみに導いていきますか? 神に関するこのような反省が自分の罪に対する悲しみに導いていきます。私たちは自分の罪によって、ご自身のうちに無限に善であり、私たちに対して無限に善である神を怒らせてしまったということです。 救い主に関するどのような反省が自分の罪の悲しみに導いていきますか? 救い主に関するこのような反省が自分の罪に対する悲しみに導いていきます。救い主は私たちの罪故に死んだこと。それに大きな罪を犯す者は、「自らふたたび神の子を侮り、十字架にくぎづける。」(ヘブライ6:8) 告解を訪ねるとき、罪によって天国を失い、地獄に値になるため、自分の罪を悲しむ気持ちは告解に足りますか? 告解を訪ねるとき、罪によって天国を失い、地獄に値になるため、自分の罪を悲しむ気持ちは告解に足ります。 完全痛悔とは何ですか? 完全痛悔とは神への愛のみに由来する悲しみです。 完全痛悔は何の特別価値がありますか? 完全痛悔はこの特別価値があります。それによって、告解以前にも自分の罪はすぐに赦ゆるされること。それにしても、もしも大罪であれば、後で告白する義務に厳しく縛られています。 告解とは何ですか? 告解とは司教承認のある司祭に罪で自分を訴えることです。 もし人が告解中に故意に大罪を隠せばどうなりますか? もし人が告解中に故意に大罪を隠せば彼は大涜聖とくせいの有罪になります。彼は悪い告白をして、聖霊に嘘をついてしまいました。 告解の準備のために、幾つの事がすべきですか? 告解の準備のために、四つの事がすべきです。第一に、心底から良い告白ができる恩寵おんちょうを得るために祈るべき;第二に、自分の良心をじっくり見るべき;第三に、時間をかけて念を入れて、痛悔の善行をするべき;第四に、神の助けで自分の罪を放棄して、未来に向けて新しい人生を始める決心するべきです。 補贖とは何ですか? 補贖ほしょくとは司祭が課する悔悛業かいしゅんぎょうを行うことです。 司祭が課する悔悛業を行えば、自分の罪を完全に補贖させますか? 司祭が課する悔悛業かいしゅんぎょうを行えば、いつも自分の罪を完全に補贖ほしょくするわけではありません。ゆえにそれを他の善行や悔悛業かいしゅんぎょうに付け加え、免償めんしょうを獲得してみるべきです。 免償とは何ですか? 免償めんしょうとは有限の処罰に対し、教会が与えた赦免です。その処罰は罪の罪責を赦ゆるされた後にもしばしば残っています。 第五の秘跡 病者の塗油の秘跡とは何ですか? この秘跡とは病者に聖香油を、祈りとともに注ぐことです。 病者の塗油の秘跡はいつ施されますか? 病者の塗油の秘跡は死の危ないところで施されるものです。 病者の塗油の秘跡の効果は何ですか? 病者の塗油の秘跡の効果は魂を慰め固めること、罪を赦ゆるすこと、神が都合のいいことと見れば、健康回復までもできます。 病者の塗油の秘跡について、聖書における典拠は何ですか? 病者の塗油の秘跡について、聖書における典拠が聖ヤコブの第5章にあり、以下のように書いてあります。「病気の人がいるなら、その人は教会の長老たちを呼べ。彼らは主のみ名によって油をぬってから祈りをとなえる。そして信仰による祈りは病気の人を救う。主は彼を立たせ、もし罪を犯しているなら、それをゆるされるであろう。」(ヤコブ5:14,15) 第六の秘跡 聖なる品級の秘跡とは何ですか? 聖なる品級とは司教と司祭と他の教会教役者きょうえきしゃが叙階され、聖職務を行えるよう力と恩寵おんちょうを受け取る秘跡です。 第七の秘跡 婚姻の秘跡とは何ですか? 婚姻とはキリスト教式結婚の契約を神聖にし、それをわきまえて受ける者に特別恩寵おんちょうを与える秘跡です。 婚姻の秘跡は、それをわきまえて受ける者にどのような特別恩寵を与えますか? 婚姻の秘跡は、それをわきまえて受ける者に、彼らの状態の困難に耐えられ、お互いを愛し忠実になり合い、子供が神を恐れて育てるための特別恩寵おんちょうを与えます。 大罪のうちで、あるいは教会の律法に背いて結婚を結ぶことは涜聖ですか? 大罪のうちで、あるいは教会の律法に背いて結婚を結ぶことは涜聖とくせいであり、有罪の者は祝福どころか、神の怒りを自分たちへと招くことになります。 「混宗結婚」とは何ですか? 「混宗結婚」とはカトリック教徒と、受洗したものの、カトリック信仰を公言していない人との結婚です。 教会は混宗結婚を勧めますか? 教会は混合結婚を勧めなく、危ないものとされます。 教会は時に混宗結婚を認めますか? 教会は時に特別条件下で特免を与え、混宗結婚を認めます。 人間の力では、結婚の絆を解くことができますか? 人間の力では、結婚の絆を解くことができません。なぜならキリストは言われた、「人は神が合わせられたものを離してはならぬ。」(マタイ19:6) 第七章 美徳と悪徳について 対神徳は何ですか? 対神徳は、「信仰」「希望」「愛徳」です。(1コリント13:13) なぜ対神徳と呼ばれますか? その徳は神に直接関連するため、対神徳と呼ばれます。 全キリスト教徒が知らなければならない主要な神秘は何ですか? 全キリスト教徒が知らなければならない主要な神秘は各々の行いに従って報いる神の「一性いつせい」と「三一性さんいつせい」、かつ救い主の「受肉」「死去」「復活」です。 枢要徳は何ですか? 枢要徳は、「賢明」「正義」「剛毅ごうき」「節制」です。(知恵8:7) なぜ枢要徳と呼ばれますか? 枢要徳と呼ばれるのは、いわば他のすべての美徳の枢要な根拠にしていることです。 聖霊の七つの賜物は何ですか? 聖霊の七つの賜物たまもの: 上智 聡明 賢慮 剛毅ごうき 知識 孝愛 主への畏おそれ(イザヤ11:2,3) 聖霊の十二の実は何ですか? 聖霊の十二の実: 愛徳 喜び 平和 忍耐 仁慈 善良 寛容 柔和にゅうわ 誠実 謙遜 節制 貞潔(ガラテヤ5:22) 愛徳の二大教訓は何ですか? 愛徳の二大教訓: 「すべての心、すべての霊、すべての知恵、すべての力をあげて、主なる神を愛せよ。」 「隣人を自分と同じように愛せよ。」(マルコ12:30,31) 慈悲の七つの身体的な行いは何ですか? 慈悲の七つの身体的な行い: 空腹の人々を食べさせること 喉の渇く人に飲み物を与えること 裸の人に服を着せること 泊まるところのない人に宿やどを貸すこと 病人を訪ねること 投獄された人々を訪ねること 死者を埋めること(マタイ25;トビト12) 慈悲の七つの霊的な行いは何ですか? 慈悲の七つの霊的な行い: 罪人つみびとを回心させること 無知な者を教導すること 疑っている者の相談に乗ること 悲しんでいる者を慰めること 不正に忍耐強く耐えること 被害を赦ゆるすこと 生者せいしゃと死者のために祈ること 真福八端は何ですか? 真福八端: 心の貧しい人は幸せである、天の国は彼らのものである。 柔和にゅうわな人は幸せである、彼らは地をゆずり受けるであろう。 悲しむ人は幸せである、彼らは慰めを受けるであろう。 正義に飢え渇く人は幸せである、彼らは飽かされるであろう。 憐あわれみのある人は幸せである、彼らも憐あわれみを受けるであろう。 心の清い人は幸せである、彼らは神を見るであろう。 平和のために励む人は幸せである、彼らは神の子らと呼ばれるであろう。 正義のために迫害される人は幸せである、天の国は彼らのものである。(マタイ5:3-10) 七つの枢要罪あるいは枢要悪と、それに対して対立徳は何ですか? 七つの枢要罪あるいは枢要悪と、対する対立徳: 枢要罪 対立徳 傲慢ごうまん 謙譲 強欲ごうよく 慈善 色欲しきよく 貞潔 憤怒ふんぬ 柔和にゅうわ 暴食 節制 嫉妬 兄弟愛 怠惰 勤勉 なぜ枢要罪と呼ばれますか? 枢要罪と呼ばれるのは、それによりすべての他の罪が由来する罪源であるためです。 聖霊に対する六つの罪は何ですか? 聖霊に対する六つの罪: うぬぼれ 絶望 既知の真理に抵抗 他人の霊的善を羨望 罪における執拗 最終的不悔悛かいしゅん 天に向かって復讐を叫ぶ四つの罪は何ですか? 天に向かって復讐を叫ぶ四つの罪: 故意の殺害(創世4:10) ソドムの罪(創世18) 困窮者への弾圧(出エジプト2) 労働者の賃金を詐取(ヤコブ5) いつ他人の罪責を持っていますか? 他人の罪責を持っているのは、自分のせいでその罪を犯させ、それとも罪に加担する際です。 他人の罪を犯させるか罪責を分担する方法は幾らありますか? 他人の罪を犯させるか罪責を分担する方法は九つ: 勧告による。 命令による。 承諾による。 挑発による。 褒め言葉や世辞による。 隠蔽いんぺいによる。 罪の片棒かたぼう担ぎによる。 無言による。 悪事を擁護による。 三つの優れた善行は何ですか? 三つの優れた善行は、「祈り」「断食」「施し」です。 福音的勧告は何ですか? 福音的勧告は、「自主清貧」「終生貞潔」「完全従順」です。 最後に必ず覚えられるべき四終は何ですか? 最後に必ず覚えられるべき四終は、「死」「審判」「天国」「地獄」です。(コヘレト7) 第八章 キリスト教徒の人生訓 救われることを望むなら、何の人生訓に従わなければなりませんか? 救われることを望むなら、イエス・キリストの教えた人生訓に従わなければなりません。 イエス・キリストの教えた人生訓によって、何をする義務がありますか? イエス・キリストの教えた人生訓によって、常に罪を憎み、神を愛する義務があります。 どのように罪を憎まなければなりませんか? 他のどんな悪よりも、何でも愛するか恐れるかでも、絶対に故意の罪を犯さないと決心できるように罪を憎まなければなりません。 どのように神を愛しなければなりませんか? 神を何よりも、心を尽くして愛しなければなりません。 どのように神を愛することを学ばなければなりませんか? 神を愛することを学ぶために、神に彼を愛するようにお教えいただくのを請わなければなりません。「私の神よ、あなたを愛するようにお教えください。」 神への愛は何を行うように導いていただきますか? 神への愛は、神が何と善であるとよく考えさせ、心でよく彼のことを語らせ、常に彼を喜ばすことを求めさせるように導いていただくものです。 イエス・キリストは、お互いに愛するようにもお命じになっていますか? イエス・キリストは、彼のためにお互いに(つまり、万人を例外なしに)愛するようにもお命じになっています。 お互いに愛することはどのようにしますか? お互いに愛することをするのは、お互いに幸福を願い合い、お互いに祈り合い、また誰もの被害の考え、言葉、行為一つも自分をさせないことによります。 自分の敵を愛する義務もありますか? 自分の敵を愛する義務もあります。彼らを心から赦ゆるすだけでなく、しかし彼らの幸福も願い、彼らのためにも祈るようです。 イエス・キリストは他の偉大な訓をお与えくださいましたか? イエス・キリストは次の言葉で他の偉大な訓をお与えくださいました。「私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従え。」(ルカ9:23) 自分を捨てることはどのようにしますか? 自分を否定することは、自分の意志を投げ捨て、自分の機嫌、傾き、欲情に逆らうことによります。 なぜ自分を捨てる義務がありますか? 自分の自然な傾きは幼い頃からも悪に傾くので、自分を捨てる義務があります。それと、その傾きが自己否定で直さなければ、間違いなく自分を地獄に連れていきます。 日々自分の十字架を背負うことはどのようにしますか? 日々自分の十字架を背負うことをするのは、忍耐をもって日々、この儚い人生の苦労や苦難に服従し、また神への愛のために、それに自分から耐えることによります。 至福なる主に従うことはどのようにしますか? 至福なる主に従うことをするのは、彼の足跡をたどり、彼の美徳に倣うことによります。 至福なる主から学ぶべき主要な美徳は何ですか? 至福なる主から学ぶべき主要な美徳は、「柔和にゅうわ」「謙譲」「従順」です。 一生の間に戦わなければならない敵は何ですか? 一生の間に戦わなければならない敵は、「悪魔」「世」「肉」です。 悪魔とはどういう意味ですか? 悪魔とはサタンとその邪悪な使いすべてという意味です。彼らは常に私たちを罪に導き入れて、彼らと一緒に天罰が下るように狙っています。 世とはどういう意味ですか? 世というのはこの世の偽りの処世訓、それにこの世の虚栄心、富、快楽を神よりも愛する者の社会という意味です。 なぜ悪魔とこの世を魂に対する敵の中としますか? 悪魔とこの世を魂に対する敵の中とするのは、彼らは常に誘惑や言葉、模範によって、私たちを彼らと一緒に劫罰に通じる広い道に連れていくように狙っています。 肉とはどういう意味ですか? 肉とは自分の堕落した傾きと欲情という意味です。それらは私たちの敵らすべてより一番危険なものです。 自分の魂の敵が私たちを罪に導き入れることを妨げるために、何をしなければなりませんか? 自分の魂の敵が私たちを罪に導き入れることを妨げるために、彼らの暗示や誘惑すべてに対して、注意し、祈り、戦わなければなりません。 悪魔・世・肉に対する戦争においては誰に頼らなければなりませんか? 悪魔・世・肉に対する戦争においては自分に頼らなず、神のみに頼らなければなりません。「私を強めたもうお方かたにおいて私にはすべてができる。」(フィリピ4:13) 第九章 キリスト教徒の毎日の修行 一日の始まりにはどうするべきですか? 一日の始まりには朝起きたらすぐに十字を切り、何か短い祈りを唱えるべきです。例えば、「私の神よ、あなたに心と魂を捧げます。」 朝起きはどうするべきですか? 朝起きはちゃんと起き、慎み深く身支度し、それからひざまずいて朝の祈りを唱えるべきです。 時間と機会があればミサも拝聴すべきですか? 時間と機会があればミサも拝聴すべきです。なぜなら、ミサを拝聴することはあらゆる信心業よりも遥かに最高な最も有益なことです。 毎日黙想することは有益ですか? 毎日黙想することは有益です。それはすべての聖人の実践でした。 何について黙想するべきですか? 特に四終と、至福なる主の生涯と受難について黙想するべきです。 良い本を頻繁に読むべきですか? 聖福音書とか、聖人伝とか、その他の霊的著作などという良い本を頻繁に読むべきです。それらは信仰と孝愛を養い、この世の偽りの処世訓に対抗する武装をさせてもらいます。 飲食・睡眠・娯楽に関してはどうするべきですか? 飲食・睡眠・娯楽に関しては、すべてを節度を持って、神を喜ばせたいと願って利用するべきです。 食前の祈祷を唱えなさい。 「主よ、私たちをご祝福ください。ご恩賜おんしよりいただこうとするこれらの贈り物も。私たちの主キリストによって。アーメン。」 食後の祈祷を唱えなさい。 「全能の神よ、すべてのご恩恵おんちょうに感謝を差し上げます。あなたは世々に生き、君臨されます。アーメン。信仰を持って逝いった魂は神の憐あわれみによって、安らかに眠りますように。アーメン。」 一日の普通の行動や仕事を、どのように聖にすべきですか? 一日の普通の行動や仕事を聖にするために、その間しばしば心を神に上げ、何か短い祈りを唱えるべきです。 罪の誘惑に駆り立てられた時、どうするべきですか? 罪の誘惑に駆り立てられた時、胸の上に十字を切って、できるだけ真剣に神を呼んで次を言うべき、「主よ、お救いください、さもなくば滅びてしまいます。」 もし罪に陥ってしまったら、どうするべきですか? もし罪に陥ってしまったら、キリストの足元へ霊的に身を投じ、謙虚に誠実な痛悔の行為によって彼の容赦を請うべきです。 神が何か十字架や病気や痛みを送られる際、何と言うべきですか? 神が何か十字架や病気や痛みを送られる際、このように言うべきです。「主よ、御心みこころが行われます。これを罪のために受けます。」 日中、どんな小さな免償付き祈りを自分にたびたび唱えると良いですか? 日中、自分にたびたび唱えると良い小さな免償めんしょう付きの祈りは次のようです。 栄光は父と子と聖霊に。初めのように、今もいつも世々に。アーメン。 すべてのことにおいて、最も聖であり、最も義であり、最も愛すべき神の御心みこころが永遠に行われ、賛美され、すべての上に高められますように。 至聖なる秘跡よ、神の秘跡よ、すべての賛美とすべての感謝、すべての瞬間はあなたのものに。 イエス・キリストを讃たたえよう、永遠にもっと讃たたえよう。私のイエスよ、憐あわれみを。マリアよ、助けを。 一日の終わりにはどうするべきですか? 一日の終わりには膝をついて、夜の祈りを唱えるべきです。 夜の祈りの後、どうするべきですか? 夜の祈りの後、ベッドに入るのにふさわしい慎みを守り;自分の心を死の思考で占め;自分が十字架の足元で休むとイメージして、十字架につけられた救い主に最後の思いを捧げるように努めるべきです。 付録 告白の祈り 全能の神、終生処女なる聖マリア、大天使聖ミカエル、洗礼者聖ヨハネ、使徒聖ペトロ、聖パウロ、および諸聖人にむけて、私は思いと言葉と行いとをもって多くの罪を犯したことを告白します。これが私の過あやまちなり、私の過あやまちなり、私のいと大きな過あやまちなり。これにより、終生処女なる聖マリア、大天使聖ミカエル、洗礼者聖ヨハネ、使徒聖ペトロ、聖パウロ、および諸聖人に、私のために私たちの主なる神に祈るようにをお願いします。アーメン。 信仰の行為 私の神よ、あなたを信じ、教会が教えるすべてのことを信じます。なぜなら、あなたはそのことを仰おっしゃって、みことばは真実である。 希望の行為 私の神よ、恩寵おんちょうと栄光のために、あなたの約束、憐あわれみ、力によって、あなたに希望をかけます。 愛徳の行為 私の神よ、あなたはとても善であるので、私は心を尽くしてあなたを愛しています。また、あなたのために、隣人を自分として愛しています。 痛悔の行為 私の神よ、あなたはとても善であるので、あなたに対して罪を犯したことを本当に後悔しています。あなたの恩寵おんちょうの助けによって、もう罪を犯しません。 より長い痛悔の行為 私の神よ、私が犯したすべての罪のために謝罪し、赦ゆるしを請い、何よりもそれらを憎みます。なぜならそれらはあなたの恐ろしい処罰に値し、私の慈いつくしみ深い救い主イエス・キリストを十字架につけ、そして何よりも、あなたの無限の善を怒らせるからです。私はあなたの恩寵おんちょうの助けによって、もうあなたを怒らせないように、慎重に罪のきっかけを避けようと固く決意します。 聖なるロザリオ 五つの喜びの神秘 お告げ(受胎告知) エリサベト訪問 降誕 主の奉献 イエスの神殿での見いだされ 五つの苦しみの神秘 園の苦しみ キリストのむち打ち 茨いばらの冠のかぶり 十字架の背負い 磔刑たっけい 五つの栄えの神秘 復活 昇天 聖霊降臨 マリアの被昇天 聖母の戴冠たいかん 神の賛美 至福である、神は。 至福である、神の聖なる御名みなは。 至福である、イエス・キリストは、真の神、真の人。 至福である、イエスの御名みなは。 至福である、イエスの至聖なる御心みこころは。 至福である、イエスの最も尊い御血おんちは。 至福である、祭壇の至聖なる秘跡におられるイエスは。 至福である、弁護者なる聖霊は。 至福である、神の偉大な母、至聖なるマリアは。 至福である、マリアの聖なる無原罪の御宿おんやどりは。 至福である、マリアの栄光の被昇天は。 至福である、乙女おとめと母なるマリアの名は。 至福である、マリアの最も貞潔な配偶者聖ヨセフは。 至福である、天使と聖人の中におられる神は。 お告げの祈り 主の御使みつかいのお告げを受けて、マリアは聖霊によって神の御子おんこを宿やどされた。アヴェ・マリア、云々 私は主のはしため、お言葉どおりになりますように。アヴェ・マリア、云々 みことばは人となり、私たちのうちに住まわれた。アヴェ・マリア、云々 先:神の母聖マリア、私たちのためにお祈りください応:キリストの約束に敵う者となりますように。 祈願 神よ、御使みつかいのお告げによって御子おんこが人となられたことを知った私たちが、キリストの受難と十字架を通して復活の栄光に達することができるよう、恵みを注いでください。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。 アレルヤの祈り 復活節中に「お告げの祈り」の代わりに立ち唱え用。 天の元后げんこう、お喜びください。アレルヤ。あなたに宿やどられた方かたは。アレルヤ。お言葉どおりに復活されました。アレルヤ。私たちのために神にお祈りください。アレルヤ。 先:乙女おとめマリア、お喜びください。アレルヤ。応:主はまことに復活されました。アレルヤ。 祈願 神よ、あなたは御子おんこキリストの復活によって、世界に喜びをお与えになりました。キリストの母、乙女おとめマリアによって、私たちも永遠の命いのちの喜びを得ることができますように。アーメン。 元后憐れみの母 元后げんこう憐あわれみの母、私たちの命いのち、甘美、希望。あなたに叫ぶ、私たち追放されたエバの子。嘆きながら泣きながらも、涙の谷にあなたを慕う。 ああ私たちのために執とり成す方かた、憐あわれみの目を私たちに注ぎ、祝福されたご胎内の御子おんこイエスをこの追放の果てに示してください。おお、寛容、慈いつくしみ、甘美の乙女おとめマリア。 先:神の母聖マリア、私たちのためにお祈りください。応:キリストの約束に敵う者となりますように。 メモラーレ 慈いつくしみ深い乙女おとめマリアよ、ご保護に寄りすがり、御おん助けを求め、あえて御おん取り次ぎを願う者は、一人として捨てられることが、昔から今に至るまで世に聞こえざるをお思いください。ああ処女の処女なる母、私はこれによって頼もしく思って馳はせ来て、罪人つみびとの身をもってあなたのみもとに嘆きます。ああみことばの母、私の祈りを軽んじず、憐あわれみをたれてこれをお聞きください。これをお聞き入れください。アーメン。 マグニフィカト 私の魂は主を崇あがめ、私の霊は救い主である神により喜びおどる。主が卑いやしいはしためを御目おんめをとめられたから、これからのち、代々の人々は私を幸いな女と呼ぶ。全能者が私に偉大なことをされたから。その御名みなは聖きよく、その憐あわれみは代々、敬あやまい畏おそれる人々の上に。その御腕おんうでの力を現し、傲おごる思いの人々を散らし、権力者をその座から下ろし、低い人々を高められる。飢えた人は良いもので満たし、富む人を空手で返される。主はご慈悲を忘れず、しもべイスラエルを助けられた。私たちの先祖に約束されたように、アブラハムの子孫に、いつまでも。 栄光は父と子と聖霊に。初めのように、今もいつも世々に。アーメン。 デ・プロフンディス 主よ、私は深い淵からあなたに叫ぶ、主よ、私の声を聞き、祈りの声に御耳おんみみを傾けたまえ。主よ、あなたが罪に御目おんめをとめられたら、主よ、誰がそれに耐えられよう。だが、あなたには赦ゆるしがある、ご律法のために、主よ、私はあなたにより頼む。私の魂はそのみことばにより頼む、私の魂は主に希望をかける。朝から夜に至るまで、イスラエルは主に希望をかけるように。なぜなら主のみもとには憐あわれみ、そのみもとには豊かな贖あがないがある。主はイスラエルを、そのすべての罪から贖あがなわれる。 先:主よ、永遠の安息を彼らに与えたまえ。応:絶えざる光を彼らの上に照らしたまえ。先:彼らは安らかに眠りますように。応:アーメン。先:主よ、私の祈りを聞きたまえ。応:私の叫びをあなたに届けたまえ。 祈願 全信仰者の創造主、かつ贖あがない主である神よ、あなたの逝いったしもべたちの魂に、すべての罪の赦ゆるしを与えたまえ。彼らが絶えず望む赦ゆるしを私たちの信心深い祈りによって受けさせたまえ。あなたは世々に生き、君臨されます。アーメン。 朝の奉納 イエスよ、マリアの最も清い御心みこころを通して、私は今日の祈り、わざ、苦しみを、あなたの神聖な御心みこころのすべての意図のために捧げます。 願望 イエス、マリア、ヨセフよ、私の心と魂を差し上げます。 イエス、マリア、ヨセフよ、私を最後の苦しみにお助けください。 イエス、マリア、ヨセフよ、私は安らかに、かつあなたがたの至福なるみもとで死ぬことができますように。 🔍最新コメント 🔍我々の動画チャンネル$5.00セット:書籍2冊・DVD1枚内動画16本入り(定価送料付き)$5.00で購入「コロナウイルス」(”COVID-19”)捏造 - ビデオ証拠・現地報告 - 必見!ここで読む🔍魂の救いを助ける献金🔍^
キリスト教要理問答(ザ・ペニー・カテキズム)
『The Penny Catechism』の邦訳
使徒信条
- 信条の第一条
- 信条の第二条
- 信条の第三条
- 信条の第四条
- 信条の第五条
- 信条の第六条
- 信条の第七条
- 信条の第八条
- 信条の第九条
- 信条の第十条
- 信条の第十一条
- 信条の第十二条
希望
祈り
愛徳
神の掟
- 第一戒
- 第二戒
- 第三戒
- 第四戒
- 第五戒
- 第六戒
- 第七戒
- 第八戒
- 第九戒
- 第十戒
教会の掟
秘跡
- 第一の秘跡:洗礼
- 第二の秘跡:堅信
- 第三の秘跡:聖体
- 第四の秘跡:悔悛
- 第五の秘跡:終油
- 第六の秘跡:品級
- 第七の秘跡:婚姻
美徳と悪徳について
- 聖霊の七つの賜物
- 聖霊の十二の実
- 慈悲の行い
- 真福八端
- 七つの枢要罪
キリスト教徒の人生訓
キリスト教徒の毎日の修行
- 一日の始まりにはどうするべきですか?
- 食前・食後の祈祷
- 一日の終わりにはどうするべきですか?
付録
- 告白の祈り
- 痛悔の行為
- 聖なるロザリオ
- 神の賛美
- お告げの祈り
- アレルヤの祈り
- 元后憐れみの母
- メモラーレ
- マグニフィカト
- デ・プロフンディス
- 朝の奉納
- 願望
『信仰』
第一章
神は私をお造りになりました。
私をお造りになったのは、この世に神を知り、神を愛し、神に仕え、そして来世に末永く神とともに幸せになるためです
神はご自分に似せて、かたどって私をお造りになりました。
この神への類似は主に私の魂にあります。
私の魂は霊であり、不滅である以上、神に似ています。
私の魂は不滅であると言うと、魂は決して死ぬことができないという意味です。
自分の魂が一番大切にするべきものです。なぜならキリストは言われた、「よし全世界をもうけても、命を失えば何の役にたつだろう。」(マタイ16:26)
自分の魂を救うために、神を「信仰」「希望」「愛徳」によって、崇拝しなければなりません。すなわち、私は神を信じ、神に希望をかけ、心を尽くして神を愛しなければなりません。
第二章
信仰とは神からの超自然的な賜物です。それによって、私たちは神の啓示した事がすべて疑わずに信じることができます。
神は真理そのものとして、欺くことも欺かれることも不可能なので、神の啓示した事はすべて信じなければならないのです。
カトリック教会の証し、教え、権威によって、神の啓示した事は知ることができます。
イエス・キリストは、「行け、諸国の民に教えよ」(マタイ28:19)と言われたとき、カトリック教会へ教える神権をお与えになりました。
神の啓示した事のうちで主要なのは使徒信条に含まれています。
私は天地の創造主、全能の父なる神を信じます;また、その御独り子、私たちの主イエス・キリストを信じます;主は聖霊によって宿り、乙女マリアから生まれ;ポンティオ・ピラトの下で苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ;地獄に下り、三日目に死者のうちから復活し;天に昇って、全能の父なる神の右の座に着き;そこから生者と死者を裁くために来られます。私は聖霊を信じ;聖なるカトリック教会;聖徒の交わり;罪の赦し;身体の復活;永遠の命を信じます。アーメン。
使徒信条は十二節もしくは箇条に分けています。
信条の第一条
信条の第一条は、「私は天地の創造主、全能の父なる神を信じます」と書いてあります。
神とは、至高の『霊』であり、唯一の自存する者であり、あらゆる完全さにおいて無限な者です。
神はすべてのことができるので、「全能」と呼ばれます。「神にできないことはない。」(マタイ19:26)
神はみことばによって、無から天地万物をお造りになったので、「天地の創造主」と呼ばれます。
神には始まりがなく、神は常にかつて在り、今も在り、これからも常に在られます。
神はどこにでもおられます。
神はすべてのことを知っており、見ておられます。私たちの最も秘密な思いでもさえ。
神は身体がなく、霊なのです。
神は唯一しかいません。
神には三つのペルソナがあります。父なる神、子なる神、聖霊なる神。
この三つのペルソナは三神であるわけではなく、御父と御子と聖霊は同一の神です。
一神における三位という神秘は、「至福なる三位一体の神秘」と呼ばれます。
神秘とは理性を超えるものの、神が啓示した真実という意味です。
私の魂には至福なる三位一体に似たところがあり、それは一つの神にはペルソナが三つあるとおり、私の魂にも力が三つあります。
私の魂の三つの力は、記憶・理解・意志です。
第二条
信条の第二条は、「また、その御独り子、私たちの主イエス・キリストを信じます」と書いてあります。
イエス・キリストは私たちのために、人となられた子なる神です。
イエス・キリストは真の神です。
イエス・キリストは父なる神と同一本性を有するので、真の神です。
イエス・キリストは常に神であって、永遠の昔から父よりお生まれになりました。
イエス・キリストは至福なる三位一体の「第二のペルソナ」です。
イエス・キリストは真の人です。
イエス・キリストには人の本性があり、私たちのような体と魂を有するので、真の人です。
イエス・キリストは常に人であったわけでなく、受肉の時からのみ人となりました。
受肉とは子なる神が人の本性をご自身に受け取ったという意味です。「みことばは肉体となって」(ヨハネ1:14)
イエス・キリストには神の本性・人の本性という二つの本性があります。
イエス・キリストにはペルソナが一つしかなく、それは子なる神というペルソナです。
子なる神は私たちを罪と地獄から贖い、私たちに天国への道を教えるために、人となられました。
イエスという聖なる御名は「救い主」を意味します。(マタイ1:21)
キリストという御名は「油を注がれた方」を意味します。
神として、イエス・キリストはどこにでもおられます。人となられた神として、天におられ、祭壇上の至福なる秘跡にもおられます。
第三条
信条の第三条は、「主は聖霊によって宿り、乙女マリアから生まれ」と書いてあります。
第三条は子なる神が聖母マリアの胎内で聖霊の力によって、私たちのような体と魂を引き受けたという意味です。
イエス・キリストは地上の父がいなく、聖ヨセフはただの「保護者」あるいは「養父」でした。
救い主はベツレヘムの馬小屋で生まれました。
救い主はクリスマス日に生まれました。
第四条
信条の第四条は、「ポンティオ・ピラトの下で苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ」と書いてあります。
キリストの主要な苦難は、第一に、ゲツセマネの園での苦しみと血の汗かき;第二に、柱でのむち打たれ、茨の冠のかぶり;第三に、十字架の背負い、磔刑、二人の盗賊の間での死でした。
主の主要な苦難は「イエス・キリストの受難」と呼ばれます。
救い主は私たちの罪を贖い、私たちに永遠の命を買い取ってくださるために苦しました。
イエス・キリストはご自分の尊い血が私たちの身代金とされたので、「贖い主」と呼ばれます。
救い主は聖金曜日に死なれました。
救い主はカルバリアの丘で死なれました。
十字を切るのは、第一に、至福なる三位一体を心にかけさせ;第二に、子なる神が私たちのために十字架上で死んだことを思い起こさせるためです。
十字の切り方において、「父と子と聖霊の御名によって」という言葉で至福なる三位一体のことを思い起こされます。
十字の切り方において、自分の上で切る十字の形そのものによって、キリストが十字架上で私たちのために死んでくださったことを思い起こされます。
第五条
信条の第五条は、「地獄に下り;三日目に死者のうちから復活し」と書いてあります。
「地獄に下り」とはキリストが死ぬ途端、彼の至福なる魂が「辺獄」という地獄の部分に下りて行ったという意味です。
辺獄とはキリスト以前に死去し、留置された義人の魂の休み所という意味です。
義人の魂はキリストが天国を開いてくださった前に昇天できなかったので、辺獄に留置されました。
「三日目に死者のうちから復活し」という言葉は、キリストが死んで葬られた三日間後、彼の祝福された御体を三日目に改めてよみがえらせたという意味です。
復活祭の主日(日曜日)に死者から復活しました。
第六条
信条の第六条は、「天に昇って、全能の父なる神の右の座に着き」と書いてあります。
「天に昇って」という言葉は、救い主が復活から四十日後の昇天日に、体でも魂でも天に昇ったという意味です。
「全能の父なる神の右の座に着き」という言葉は、キリストが神として、父と同等であり、人として天の最高位置についているという意味です。
第七条
信条の第七条は、「そこから生者と死者を裁くために来られます」と書いてあります。
キリストは最後の日に全人類を裁くために、天からご再臨になります。
キリストは私たちの思い、言葉、行い、不作為をお裁きになります。
キリストは悪人にはこう言われる、「のろわれた者よ、私を離れて悪魔と使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」(マタイ25:41)
キリストは義人にはこう言われる、「父に祝せられた者よ、来て、世の始めからあなたたちに備えられていた国を受けよ。」(マタイ25:34)
皆は死の時、また最後の日にも裁かれます。「人間は一度だけ死んでその後審判を受けると定められている」(ヘブライ9:27)
第八条
信条の第八条は、「私は聖霊を信じ」と書いてあります。
聖霊は至福なる三位一体の「第三のペルソナ」です。
聖霊は父と子から出ます。
聖霊は父と子と同等であり、なぜなら聖霊が彼らと同じ主と神です。
聖霊は五旬祭に使徒たちにお降りになり、「火のような分かれた舌」(使徒2:3)という姿で現れました。
聖霊は使徒たちの信仰を確認し、彼らを聖化し、そして教会を創立させるためにお降になりました。
第九条
信条の第九条は、「聖なるカトリック教会;聖徒の交わり」と書いてあります。
カトリック教会とは一つの頭のもとに全信仰者の一致です。
カトリック教会の頭は私たちの主イエス・キリストです。
教会はキリストの代理人であるローマ司教という見える頭が地上にいます。
ローマ司教は、キリストが教会の頭に任命した聖ペトロの継承者なので、教会の頭となります。
キリストが聖ペトロを教会の頭に任命したことは知っているのは、キリストが彼に言われた、「あなたはペトロである。私はこの岩の上に私の教会を立てよう。地獄の門もこれに勝てぬ。私はあなたに天の国のかぎを与える。」(マタイ16:18-19)
ローマ司教は「教皇」あるいは「パパ」と呼ばれます。パパは「父」を表します。
教皇は全キリスト教徒の霊的な父です。
教皇は全キリスト教徒の「司牧者」と「教師」です。なぜならキリストは聖ペトロに、「私の小羊を牧せよ。私の羊を牧せよ。」と言われたとき、キリストが彼をその羊の群れ全部の牧者にされました。また、彼の「信仰」が無くならないよう祈り、兄弟たちの心を「固めよ」と命じられました。(ヨハネ21:15-17;ルカ22:32)
教皇は不可謬です。
教皇が不可謬であるというと、それは教皇は全キリスト教徒の「司牧者」と「教師」として、全教会が持つための信仰または道徳に関する教理を定義するとき、彼は誤ることができないという意味です。
私たちがキリストの教会が知れるような特徴が四つあります。教会は唯一であり、聖であり、カトリックであり、使徒的です。
教会は唯一の「信仰」について全員同意で、同じ「生贄」と「秘跡」があり、一つの頭のもとに全員一致なので、教会は唯一です。
教会は聖なる教理を教え、誰にも聖になる手段を提供し、その多数千人の子供の優れた聖性で抜群なので、教会は聖です。
カトリックという単語は「普遍」を意味します。
教会は古往今来存在し、万国を教え、万人の唯一の「救いの箱舟」であるので、カトリックあるいは普遍です。
教会は使徒の教理と聖伝を保ち、そしてその「司牧者たち」の連綿不断の継承を通してその「品級」と「使命」を得るので、教会は使徒的です。
教会は信仰と道徳に関して誤ることができません。なぜなら教会は両方における私たちの不可謬な導き手です。
教会が教えに誤りえないことは知っているのは、キリストが、地獄の門が決して教会に勝てず,聖霊はすべてのことを教会に教え,ご自身が日々世界の終わりまでも教会と共におられると約束しました。(マタイ16:18;ヨハネ14:16-26;マタイ28:20)
「聖徒の交わり」とは天にも地上にも煉獄にもいる教会全員がイエス・キリストにおける一体として、お互いに交わり合っているという意味です。
地上の信者はお互いに、同じ信仰を公言し、同じ権威に従い、祈りと善行で助け合うことによって、交わり合っています。
私たちは天にいる聖人に、栄化された教会員として彼らを敬い、また彼らに祈り、彼らに私たちのために祈ってもらうことによって、交わりをしています。
私たちは煉獄にいる魂に、祈りと善行で彼らを助けることによって、交わりをしています。「罪から解き放たれるよう死者のために祈ることは聖く健全な思いである。」(2マカバイ12:46(ドゥエ・ランス英訳):"It is a holy and wholesome thought to pray for the dead, that they may be loosed from their sins.")
煉獄とは死後罪によって魂が一時的に苦しむ場所です。
煉獄に行く魂は小罪のうちにこの世を去って逝った者、または有罪が赦されたのに、その罪による有限の罰の負債はまだ完全に支払っていない者です。
有限の罰とはこの世であれ来世であれ、終わりに繋がる処罰です。
教会の一定教導および聖書の教理から、煉獄があることは証明します。聖書は、神が各人の行為に応じて報い;清くない者が決して天に入れなく;そしてある人が「火を通るようにして」救われると宣言します。(マタイ16:27;黙示21:27;1コリント3:15)
第十条
信条の第十条は、「罪の赦し」と書いてあります。
「罪の赦し」とは、キリストが罪を赦す力をその教会の「司牧者たち」にお任せになったという意味です。 (ヨハネ20:23)
罪は主に「洗礼」と「悔悛」の秘跡によって赦されます。
罪とは神の律法に反するあらゆる思い、言葉、行い、不作為によって、神に対する違反です。
罪には「原罪」と「自罪」との二種類があります。
原罪とは全人類の起源であり、頭であったアダムから受け継いだ罪責と汚れです。
アダムの犯した罪は禁断の果実を食べたときの不従順の罪です。
全人類は原罪の罪責と汚れにかかったが、至福なる乙女は彼女の神的御子の功徳によって、原罪の罪責も汚れもなく御宿りになられました。
至福なる聖母のこの特典は、「無原罪の御宿り」と呼ばれます。
自罪とは私たち自身の犯したあらゆる罪です。
自罪は「大罪」と「小罪」に分かれています。
大罪とは神に対する大きな犯罪です。
魂を殺し、地獄に値する罪なので、大罪と呼ばれます。
大罪は魂の超自然的な命である聖化恩寵を奪って、魂を殺します。
大罪に陥ることはあらゆる悪の中では最悪なものです。
大罪のうちに死んだ者は永遠に地獄に行きます。
小罪とは魂を殺さないのに、神を不愉快にさせ、それにしばしば大罪に繋がる犯罪です。
大罪よりも容易に赦免されるため、小罪と呼ばれます。
第十一条
信条の第十一条は、「身体の復活」と書いてあります。
「身体の復活」というと、審判の日には皆同じ体でよみがえるという意味です。
第十二条
信条の第十二条は、「永遠の命を信じます」と書いてあります。
「永遠の命」というと、善人が天国の栄光と幸福のうちに永遠に生きるという意味です。
天国の栄光と幸福とは末永く神を拝見し、愛し、楽しむことです。
聖書には天国の幸福について、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心にまだ思い浮かばず、神がご自分を愛する人々のために準備された」(1コリント2:9)と書いてあります。
悪人も永遠に生き、永遠に地獄の火の中で罰せられます。
『希望』
第三章
信仰のみは、善行がなければ救いません。「希望」と「愛徳」とも必要です。
希望とは神から与えられた超自然的な賜物です。それによって、私たちは神に要求されることをすれば、永遠の命と、その命を得るための必要なすべての手段をお与えくださると固く信頼します。
神は無限善良であり、無限の力を持っており、約束に対して忠実であるから、神に希望をかけなければなりません。
私たちは自ら善行をして、救いに進むことができません。神の恩寵による助けは必要なものです。
恩寵とは神の超自然的な賜物です。私たちの聖化と救いのために自由に与えられるものです。
神の恩寵を手に入れるには主に祈りと聖なる秘跡によるべきです。
祈り
祈りとは神に心と思いを差し挙げることです。
神に思いと心の差し挙げ方は神のことを考え、神を礼拝し、賛美し、感謝し、また魂と体のためにあらゆる祝福を請うことに通します。
神のことも語ることも考えずに祈る者は良く祈りません。むしろ、もし注意散漫は故意なら、神を怒らせます。
最善の祈りは「私たちの父よ」あるいは「主の祈り」です。
イエス・キリストご自身が主の祈りをお作りになりました。
天におられる私たちの父よ、御名が聖とされますように。御国が来ますように。御心が天に行われるとおり、地にも行われますように。私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。私たちが人を赦すとおり、私たちの罪もお赦しください。私たちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください。アーメン。
主の祈りでは神は「私たちの父」と呼ばれます。
神は「私たちの父」と呼ばれるのは、神は全キリスト教徒の父であり、聖なる洗礼によって、私たちを神の子供にしてくださったのです。
神は全人類の父でもあります。なぜなら彼ら皆を造り、皆を愛し、保存しておられます。
「私」の父でなく、「私たち」の父と言うのは、皆兄弟として、自分のためだけでなく、他人のためにも祈るべきです。
「御名が聖とされますように」というと、神がすべての被造物に知られ、愛され、仕えられるように祈ります。
「御国を来ますように」というと、神の恩寵によって、神はこの世に来られ、皆の心で支配しており、私たち全員を神の天の御国に連れていってくださるように祈ります。
「御心が天に行われるとおり、地にも行われますように」というと、神の恩寵によって、私たちが天にいる福者のように、すべてのことにおいて神の御心を行えるようにさせると祈りします。
「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」というと、神は私たちの魂と体のための必要なものがすべて毎日お与えくださるように祈ります。
「私たちが人を赦すとおり、私たちの罪もお赦しください」というと、私たちは他人が私たちを傷つくことを赦してあげるとおり、神は私たちの罪を赦してくださるように祈ります。
「私たちを誘惑に陥らせず」というと、神は私たちに誘惑に負けない恩寵をお与えくださるように祈ります。
「悪からお救いください」というと、神は私たちを魂と体に関するすべての悪から解放してくださるように祈ります。
天使と聖人と祈ってくださることは頼むべきです。なぜなら彼らは私たちの友であり兄弟であり、なお彼らのお祈りは神に対する大きな力が持っています。
天使と聖人は地上の状況が知っているのは、キリストのみことばから示せます。「悔い改める一人の罪人のために、神の天使たちは喜びにわくのである。」(ルカ15:10)
教会が用いている至福なる乙女への主要なお祈りは「アヴェ・マリアの祈り」です。
アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。 あなたは女のうちで祝福され、 ご胎内の御子イエスも祝福されています。 神の母聖マリア、私たち罪人のために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。
天使ガブリエルと聖霊の霊感による聖エリサベトはアヴェ・マリアの祈りの前半を作りました。
神の教会は聖霊の導きによって、アヴェ・マリアの祈りの後半を作りました。
神の子の受肉が思い浮かべるために、また「神の母」である至福なる聖母を敬うために、アヴェ・マリアの祈りをたびたび唱えるべきです。
アヴェ・マリアの祈りをたびたび唱えるべきなのは他の理由があります。それは至福なる聖母が私たち罪人のために、いつでも、特に死を迎える時にお祈りくださるように頼むことです。
カトリック教会は至福なる乙女へ大きな信心を示しているのは、彼女が「神の汚れなき母」なのです。
イエス・キリスト、すなわち聖母から人として生まれた子は人ばかりではなく、しかし真の神でもあるので、至福なる乙女は神の母です。
至福なる乙女は私たちの母でもあります。なぜなら私たちはイエスの兄弟として、マリアの子供です。
『愛徳』
第四章
神の掟
愛徳とは神から与えられた超自然的な賜物です。それによって、何よりも神を愛し、隣人を自分として神のために愛します。
神はご自身のうちに無限に善であり、私たちに対しても無限に善であるからこそ、神を愛しなければなりません。
神を愛することは、神の掟を守ることを通します。キリストはいわく、「あなたたちは私を愛するなら私のおきてを守るだろう」(ヨハネ14:15)
掟は十戒あります。
私は主、あなたの神、エジプトの地、奴隷の家から、あなたを連れ出した神である。
神は旧法で十戒をモーセにお与えになり、新法でキリストはそれをご確認になりました。
第一戒
第一戒は、「私のほかに神があってはならない。刻んだ像を作ってはならぬ、高く天にあるもの、低く地にあるもの、地の下にある水の中にあるものの、どんな像をも作ってはならない。それらを礼拝してはならぬ、それらに仕えてもならない」です。
第一戒には、唯一の、真の、生ける神を「信仰」「希望」「愛徳」「宗教」によって崇拝するように命じられています。
信仰に対する罪とはすべての偽宗教、いかなる信仰箇条に対する故意の疑惑・不信仰・否定、および教会の教理に対する有責の不知です。
私たちは自分を信仰喪失の危険にさらすのは、霊的義務を怠けること、悪い本を読むこと、非カトリック学校に通っていること、偽宗教の礼拝式や祈りに参加することに通します。
希望に対する罪とは「絶望」と「うぬぼれ」です。
宗教に対する主な罪とは偽り神々もしくは偶像の崇拝すること、かつ神のみに属する尊敬をいかなる被造物にも与えることです。
第一戒によれば、聖像作りは禁じていなく、むしろ偶像作りは禁じています。すなわち、神扱いで崇め敬うための像を作ることは禁じています。
第一戒によれば、悪魔との取引と迷信的な習慣は全部禁じています。例えば、霊能者や占い師と相談し、護符や前兆、夢占い、かつ同類の愚かな物を信頼すること。
涜聖とシモニアの罪もすべて第一戒によって禁じられています。
天使と聖人に神とする尊敬や礼拝を挙げることは禁じられています。これは神のみに属することです。
天使と聖人には劣る尊敬や崇拝を払うべきです。これは神のしもべであり特別な友人である彼らへの礼儀です。
聖遺物や十字架像や聖画には相対的な尊敬を払うべきです。なぜならキリストとその聖人に関連し、彼らの記念物ためです。
聖遺物や聖像に祈りません。なぜなら私たちを見ることも、聞くことも、助けることもできません。
第二戒
第二戒は、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」です。
第二戒には、神のことやあらゆる聖なる人と聖なる物のことを畏敬の念で語り、正当な誓約や誓いを守るように命じられています。
第二戒によれば、すべての偽りの、軽率な、不正な、不要な誓いは禁じています。それに冒涜・ののしり・卑罵語も禁じています。
誓いを立てることは神の名誉、あるいは自分や隣人の利益に必要であれば正当です。
第三戒
第三戒は、「安息日を心にとどめ、これを聖とせよ」です。
第三戒には主日(日曜日)を聖とするように命じられています。
主日を聖とすることは、ミサを拝聴し、肉体労働を休むことに通します。
肉体労働を休むように命じられているのは、祈り、秘跡を訪ね、教導を聴き、良い本を読む時間と機会があるためです。
第四戒
第四戒は、「あなたの父母を敬え」です。
第四戒には両親を愛し、敬畏し、それに罪以外のことで親に従うように命じられています。
私たちは両親だけでなく、司教と司牧者たちにも、民政当局にも、正当な目上にも従うように命じられています。
私たちは両親の欲しい物のために援助する義務があります。霊的な事でも俗事でもあります。
私たちは正義に縛られて、司牧者たちの応援に貢献する義務があります。聖パウロはいわく、「主は、福音をのべる人々が福音で生きるようにと定められた」(1コリント9:14)
親は自分の子供に対する義務は子供を養い、子供を指導し矯正し、良いカトリックの教育を施すことです。
主人や女主人や他の目上などの義務は、ちゃんと責任下の目下の世話をし、宗教的な義務を行えさせることです。
第四戒によれば、私たちの親や正当な目上を軽蔑し、彼らに対して頑固になり、不従順になることは全部禁じています。
教会や国家に陰謀を企てる「秘密結社」や、秘密性に基づいて教会に断罪された結社に所属することは罪深いです。聖パウロはいわく、「全ての人は上の権威者に服従せよ。権威に背く者は神の定めに背く。背く者は神のさばきを招く。」(ローマ13:1,2)
第五戒
第五戒は、「殺してはならない」です。
第五戒によれば、すべての故意の殺人・戦い・喧嘩・傷つく言葉、そしてつまずきや悪い模範は禁じています。
第五戒によれば、怒りは禁じています。なおさら、憎悪と復讐も禁じています。
つまずきと悪い模範は隣人の魂を被害と霊的死亡に繋がるので、第五戒によって禁じられています。
第六戒
第六戒は「姦淫してはならない」です。
第六戒によれば、他人の妻あるいは夫との不純の罪はすべて禁じています。
第六戒によれば、外見・言葉・行動どれにおいても、聖なる純潔に反することは禁じています。
第六戒によれば、下品な劇やダンスは禁じられています。それを観ることは罪深いです。
第六戒によれば、下品な歌・本・絵は禁じています。なぜならそれは魂に対する最も危険なものであり、大罪に落ち繋がります。
第七戒
第七戒は、「盗んではならない」です。
第七戒によれば、他人のものを不正に取り上げること、または持っていることはすべて禁じています。
第七戒によれば、売買における不正行為はすべて禁じられています。その他にも隣人への不正に扱う方法はすべて禁じられています。
できれば不正に入手した物は返す義務があります。返さなければ罪が赦されられません。借金も返さなければなりません。
使用人が主人の時間や財産を浪費することは不誠実です。なぜなら自分のものでないものを浪費することです。
第八戒
第八戒は、「隣人に関して偽証してはならない」です。
第八戒によれば、あらゆる偽証・軽率判断・嘘は禁じています。
第八戒によれば、誹謗中傷は禁じられています。または悪い噂を流すこと、隣人の人格を傷つけるような言葉も禁じられています。
もし悪口を言って隣人を傷つけたら、できる限り償いに彼の評判を直す義務があります。
第九戒
第九戒は、「隣人の妻を欲してはならない」です。
第九戒によれば、不純な考えや欲望への故意の承諾と、肉の変則な動きにおける故意の快楽はすべて禁じています。
一般的に、第六戒と第九戒の破りに繋がる罪は暴食・泥酔・不節制、および無為・悪友・祈りの怠慢です。
第十戒
第十戒は、「隣人の財産を欲してはならない」です。
第十戒によれば、隣人の財産や利益に対する妬ましい欲張りな思いと不当な欲望は禁じています。
第五章
教会の掟
教会に従う義務があります。なぜならキリストは教会の司牧者たちに言われた、「あなたたちの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人であり、あなたたちを拒む人は、私を拒む人である。」(ルカ10:16)
教会の主要な掟:
教会の第一の掟は、「主日(日曜日)と義務の聖日を、ミサ拝聴と肉体労働休止によって聖とすること」です。
イングランドとウェールズでは祝われている義務の聖日はクリスマス日、公現祭、昇天祭、聖体の祝日、聖ペトロと聖パウロの祭日、聖母の被昇天の祝日、諸聖人の日です。
主日と義務の聖日にはミサを怠けて拝聴しないことは大罪です。
親や主人や女主人は、自分の世話になる者が主日と義務の聖日にはミサを拝聴させる義務があります。
教会の第二の掟は、「教会に定められた大斎(断食)・小斎の日を守ること」です。
大斎の日とは完全な食事を食べるのが一食しか許されない日です。
大斎の日とは「灰の水曜日」と「聖金曜日」です。
小斎の日とは食肉の摂取が禁じられている日です。
イングランドとウェールズでは灰の水曜日と聖金曜日は小斎の日です。
教会は私たちに大斎と小斎をするように命じているのは、肉体苦行し、自分の罪につき神を満たすためです。
教会の第三の掟は、「少なくとも一年に一度告解を訪ねること」です。
子供は理性を使えてきて、大罪を犯すことができると告解を訪ねる義務があります。
一般的に、子供は七歳で理性を使えてくるはずです。
教会の第四の掟は、「少なくとも一年に一度、至福なる秘跡を拝領すること。それも復活祭のころにして」です。
キリスト教徒は御体とただのパンを区別できるになり、十分教導されたと判断されると、至福なる秘跡を拝領する義務があります。
教会の第五の掟は、「司牧者たちの支持に貢献すること」です。
できるだけ宗教の支持に貢献することは義務です。それは神が正しく敬われ礼拝され、神の教会の王国が広げられるためです。
教会の第六の掟は、「一定の親等内で結婚しないこと。禁断の時期にも婚姻挙行をしないこと」です。
特別許可なしで挙行して婚姻することが禁じられている時期は待降節の第一の日曜日から、クリスマス日の後までと、灰の水曜日から復活祭の主日の後までです。
『秘跡』
第八章
秘跡とは内面的恩寵の外面的なしるしです。秘跡がイエス・キリストに定められ、それをもって私たちの魂へと恩寵を与えられるものです。
秘跡はわきまえて受ける者には必ず恩寵を与えます。
秘跡はキリストの尊い血の功徳から恩寵を与える力が受け持ってあります。その功徳を私たちの魂につけてくださいます。
秘跡の受けることは強く望むべきです。なぜならそれは私たちの主要な救済方法です。
「洗礼」「堅信」「品級」の秘跡によって霊印が魂に与えられます。
霊印とは魂に刻まれた消えない「しるし」または「証印」です。それゆえ、特定の霊印を与えた秘跡は繰り返すことができません。
秘跡は七つあります。「洗礼」「堅信」「聖体」「悔悛」「病者の塗油」「品級」「婚姻」。
第一の秘跡
洗礼とは私たちを原罪から洗い清め、「キリスト教徒」「神の子供」「教会の成員」にする秘跡です。
洗礼は自罪も赦します。洗礼は相応な意気で受けられたら、その罪による処罰とも赦します。
洗礼の通常執行者は司祭だが、司祭不在の場合、必要ならば誰でも洗礼を授けることができます。
洗礼の授け方は、子供の頭に水をかけ、同時に次の言葉を唱えます。「私は父と子と聖霊の御名によって、あなたに洗礼を授けます。」
洗礼式では私たちは悪魔とそのすべての業や壮麗を放棄することを約束します。
洗礼は救いのために必要です。なぜならキリストはいわく「水と霊によって生まれぬ者は天の国に入れぬ。」(ヨハネ3:5)
第二の秘跡
堅信とは聖霊を受ける秘跡です。それをもって私たちは強い完璧なキリスト教徒とイエス・キリストの兵士になるものです。
堅信の通常執行者は司教です。
司教は、受堅者に聖霊がお降りくださるように祈り、彼に按手して額に聖香油で十字を切ると同時に、ある言葉を唱えることによります。
堅信式で使われる言葉は次のように:「私はあなたに十字架のしるしを切り、救いの聖香油で堅信を授けます。父と子と聖霊の御名によって。アーメン。」
第三の秘跡
聖体の秘跡とはイエス・キリストの真の御体・御血であり、かつ彼の魂・神性と共に、パンとぶどう酒の外観の下に装っているものです。
パンとぶどう酒は神の力によって、キリストの御体と御血に変化されます。神には何も不可能なことや難しいことがありません。
パンとぶどう酒は、ミサ聖祭中に司祭がイエス・キリストの定められた聖別の言葉を唱えると、キリストの御体と御血に変化されます。
キリストはご自身を聖体で私たちの魂の命と糧になるようにお与えくださいました。「私を食べる者も私によって生きる。このパンを食べる者は永遠に生きる。」(ヨハネ6:57, 58)
キリストはどちらの形態のみでも全体全部で受領されます。
至福なる秘跡をわきまえて拝領するために、恩寵の状態のうちに、定められた断食を守るべきです。水は断食を破るわけではありません。
恩寵の状態のうちとは大罪から放れており、神に喜んでいることです。
大罪の状態のうちに聖体拝領することは大きな罪です。「わきまえずに飲食する者は、自分自身へのさばきを飲食することである。」(1コリント11:29)
至福なる聖体は秘跡だけでなく、生贄でもあります。
生贄とは神がすべての物の主権者である証しとして、司祭によって犠牲を神のみに捧げることです。
新しい律法の生贄はミサ聖祭です。
ミサ聖祭とはイエス・キリストの御体と御血を生贄として捧げる儀式です。その御体と御血がパンとぶどう酒の姿で本当に祭壇上にあり、生者と死者のために神へと捧げられます。
ミサ聖祭の生贄と十字架上の生贄とは同じものです。なぜなら、ご自分を出血犠牲としてその天父に捧げたキリストは、今までもご自分を祭壇上で血みどろでない形で、彼の司祭の奉仕によって捧げ続けます。
ミサの生贄の捧げられるのは四つのためです。第一に、神に最高名誉と栄光を差し上げること;第二に、神にすべての恩恵に感謝すること;第三に、神を私たちの罪について満たし、悔悛の恩寵を得ること;第四に、イエス・キリストに通してその他もろもろの恩寵や祝福を得ることです。
ミサは私たちの主の受難と死去の記念でもあります。なぜならキリストは最後の晩餐で言われた、「私の記念としてこれを行え。」(ルカ22:19)
第四の秘跡
悔悛とは洗礼後に犯した大罪であれ小罪であれ罪が赦される秘跡です。
罪の赦しの他に、悔悛の秘跡は魂の中に神の恩寵を増やします。
私たちの主はその使徒たちに息を吹きかけて、罪を赦す力をお与えくださる時、悔悛の秘跡を制定されました。彼は言われた、「あなたたちが罪をゆるす人にはその罪がゆるされ」(ヨハネ20:23)
司祭は赦罪の言葉を唱えると、神の力によって罪を赦します。
赦罪の言葉は次のように:「私はあなたを罪から赦罪します。父と子と聖霊の御名によって。」
悔悛者側には赦しの条件が三つ要求されます。それは、「痛悔」「告解」「補贖」です。
痛悔とは自分の罪に対する心底の悲しみで、改心への固い意図とともに持っていることです。なぜなら、自分の罪によっていと善良な神を怒らせてしまいました。
改心への固い意図とは罪だけでなく、罪の危険なきっかけも神の恩寵によって避けようと決心です。
自分の罪に対する心底の悲しみは、それを得るように祈れば、それに導くような反省を用いれば獲得できます。
神に関するこのような反省が自分の罪に対する悲しみに導いていきます。私たちは自分の罪によって、ご自身のうちに無限に善であり、私たちに対して無限に善である神を怒らせてしまったということです。
救い主に関するこのような反省が自分の罪に対する悲しみに導いていきます。救い主は私たちの罪故に死んだこと。それに大きな罪を犯す者は、「自らふたたび神の子を侮り、十字架にくぎづける。」(ヘブライ6:8)
告解を訪ねるとき、罪によって天国を失い、地獄に値になるため、自分の罪を悲しむ気持ちは告解に足ります。
完全痛悔とは神への愛のみに由来する悲しみです。
完全痛悔はこの特別価値があります。それによって、告解以前にも自分の罪はすぐに赦されること。それにしても、もしも大罪であれば、後で告白する義務に厳しく縛られています。
告解とは司教承認のある司祭に罪で自分を訴えることです。
もし人が告解中に故意に大罪を隠せば彼は大涜聖の有罪になります。彼は悪い告白をして、聖霊に嘘をついてしまいました。
告解の準備のために、四つの事がすべきです。第一に、心底から良い告白ができる恩寵を得るために祈るべき;第二に、自分の良心をじっくり見るべき;第三に、時間をかけて念を入れて、痛悔の善行をするべき;第四に、神の助けで自分の罪を放棄して、未来に向けて新しい人生を始める決心するべきです。
補贖とは司祭が課する悔悛業を行うことです。
司祭が課する悔悛業を行えば、いつも自分の罪を完全に補贖するわけではありません。ゆえにそれを他の善行や悔悛業に付け加え、免償を獲得してみるべきです。
免償とは有限の処罰に対し、教会が与えた赦免です。その処罰は罪の罪責を赦された後にもしばしば残っています。
第五の秘跡
この秘跡とは病者に聖香油を、祈りとともに注ぐことです。
病者の塗油の秘跡は死の危ないところで施されるものです。
病者の塗油の秘跡の効果は魂を慰め固めること、罪を赦すこと、神が都合のいいことと見れば、健康回復までもできます。
病者の塗油の秘跡について、聖書における典拠が聖ヤコブの第5章にあり、以下のように書いてあります。「病気の人がいるなら、その人は教会の長老たちを呼べ。彼らは主のみ名によって油をぬってから祈りをとなえる。そして信仰による祈りは病気の人を救う。主は彼を立たせ、もし罪を犯しているなら、それをゆるされるであろう。」(ヤコブ5:14,15)
第六の秘跡
聖なる品級とは司教と司祭と他の教会教役者が叙階され、聖職務を行えるよう力と恩寵を受け取る秘跡です。
第七の秘跡
婚姻とはキリスト教式結婚の契約を神聖にし、それをわきまえて受ける者に特別恩寵を与える秘跡です。
婚姻の秘跡は、それをわきまえて受ける者に、彼らの状態の困難に耐えられ、お互いを愛し忠実になり合い、子供が神を恐れて育てるための特別恩寵を与えます。
大罪のうちで、あるいは教会の律法に背いて結婚を結ぶことは涜聖であり、有罪の者は祝福どころか、神の怒りを自分たちへと招くことになります。
「混宗結婚」とはカトリック教徒と、受洗したものの、カトリック信仰を公言していない人との結婚です。
教会は混合結婚を勧めなく、危ないものとされます。
教会は時に特別条件下で特免を与え、混宗結婚を認めます。
人間の力では、結婚の絆を解くことができません。なぜならキリストは言われた、「人は神が合わせられたものを離してはならぬ。」(マタイ19:6)
第七章
美徳と悪徳について
対神徳は、「信仰」「希望」「愛徳」です。(1コリント13:13)
その徳は神に直接関連するため、対神徳と呼ばれます。
全キリスト教徒が知らなければならない主要な神秘は各々の行いに従って報いる神の「一性」と「三一性」、かつ救い主の「受肉」「死去」「復活」です。
枢要徳は、「賢明」「正義」「剛毅」「節制」です。(知恵8:7)
枢要徳と呼ばれるのは、いわば他のすべての美徳の枢要な根拠にしていることです。
聖霊の七つの賜物:
聖霊の十二の実:
愛徳の二大教訓:
慈悲の七つの身体的な行い:
慈悲の七つの霊的な行い:
真福八端:
七つの枢要罪あるいは枢要悪と、対する対立徳:
枢要罪
対立徳
枢要罪と呼ばれるのは、それによりすべての他の罪が由来する罪源であるためです。
聖霊に対する六つの罪:
天に向かって復讐を叫ぶ四つの罪:
他人の罪責を持っているのは、自分のせいでその罪を犯させ、それとも罪に加担する際です。
他人の罪を犯させるか罪責を分担する方法は九つ:
三つの優れた善行は、「祈り」「断食」「施し」です。
福音的勧告は、「自主清貧」「終生貞潔」「完全従順」です。
最後に必ず覚えられるべき四終は、「死」「審判」「天国」「地獄」です。(コヘレト7)
第八章
キリスト教徒の人生訓
救われることを望むなら、イエス・キリストの教えた人生訓に従わなければなりません。
イエス・キリストの教えた人生訓によって、常に罪を憎み、神を愛する義務があります。
他のどんな悪よりも、何でも愛するか恐れるかでも、絶対に故意の罪を犯さないと決心できるように罪を憎まなければなりません。
神を何よりも、心を尽くして愛しなければなりません。
神を愛することを学ぶために、神に彼を愛するようにお教えいただくのを請わなければなりません。「私の神よ、あなたを愛するようにお教えください。」
神への愛は、神が何と善であるとよく考えさせ、心でよく彼のことを語らせ、常に彼を喜ばすことを求めさせるように導いていただくものです。
イエス・キリストは、彼のためにお互いに(つまり、万人を例外なしに)愛するようにもお命じになっています。
お互いに愛することをするのは、お互いに幸福を願い合い、お互いに祈り合い、また誰もの被害の考え、言葉、行為一つも自分をさせないことによります。
自分の敵を愛する義務もあります。彼らを心から赦すだけでなく、しかし彼らの幸福も願い、彼らのためにも祈るようです。
イエス・キリストは次の言葉で他の偉大な訓をお与えくださいました。「私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従え。」(ルカ9:23)
自分を否定することは、自分の意志を投げ捨て、自分の機嫌、傾き、欲情に逆らうことによります。
自分の自然な傾きは幼い頃からも悪に傾くので、自分を捨てる義務があります。それと、その傾きが自己否定で直さなければ、間違いなく自分を地獄に連れていきます。
日々自分の十字架を背負うことをするのは、忍耐をもって日々、この儚い人生の苦労や苦難に服従し、また神への愛のために、それに自分から耐えることによります。
至福なる主に従うことをするのは、彼の足跡をたどり、彼の美徳に倣うことによります。
至福なる主から学ぶべき主要な美徳は、「柔和」「謙譲」「従順」です。
一生の間に戦わなければならない敵は、「悪魔」「世」「肉」です。
悪魔とはサタンとその邪悪な使いすべてという意味です。彼らは常に私たちを罪に導き入れて、彼らと一緒に天罰が下るように狙っています。
世というのはこの世の偽りの処世訓、それにこの世の虚栄心、富、快楽を神よりも愛する者の社会という意味です。
悪魔とこの世を魂に対する敵の中とするのは、彼らは常に誘惑や言葉、模範によって、私たちを彼らと一緒に劫罰に通じる広い道に連れていくように狙っています。
肉とは自分の堕落した傾きと欲情という意味です。それらは私たちの敵らすべてより一番危険なものです。
自分の魂の敵が私たちを罪に導き入れることを妨げるために、彼らの暗示や誘惑すべてに対して、注意し、祈り、戦わなければなりません。
悪魔・世・肉に対する戦争においては自分に頼らなず、神のみに頼らなければなりません。「私を強めたもうお方において私にはすべてができる。」(フィリピ4:13)
第九章
キリスト教徒の毎日の修行
一日の始まりには朝起きたらすぐに十字を切り、何か短い祈りを唱えるべきです。例えば、「私の神よ、あなたに心と魂を捧げます。」
朝起きはちゃんと起き、慎み深く身支度し、それからひざまずいて朝の祈りを唱えるべきです。
時間と機会があればミサも拝聴すべきです。なぜなら、ミサを拝聴することはあらゆる信心業よりも遥かに最高な最も有益なことです。
毎日黙想することは有益です。それはすべての聖人の実践でした。
特に四終と、至福なる主の生涯と受難について黙想するべきです。
聖福音書とか、聖人伝とか、その他の霊的著作などという良い本を頻繁に読むべきです。それらは信仰と孝愛を養い、この世の偽りの処世訓に対抗する武装をさせてもらいます。
飲食・睡眠・娯楽に関しては、すべてを節度を持って、神を喜ばせたいと願って利用するべきです。
「主よ、私たちをご祝福ください。ご恩賜よりいただこうとするこれらの贈り物も。私たちの主キリストによって。アーメン。」
「全能の神よ、すべてのご恩恵に感謝を差し上げます。あなたは世々に生き、君臨されます。アーメン。信仰を持って逝った魂は神の憐れみによって、安らかに眠りますように。アーメン。」
一日の普通の行動や仕事を聖にするために、その間しばしば心を神に上げ、何か短い祈りを唱えるべきです。
罪の誘惑に駆り立てられた時、胸の上に十字を切って、できるだけ真剣に神を呼んで次を言うべき、「主よ、お救いください、さもなくば滅びてしまいます。」
もし罪に陥ってしまったら、キリストの足元へ霊的に身を投じ、謙虚に誠実な痛悔の行為によって彼の容赦を請うべきです。
神が何か十字架や病気や痛みを送られる際、このように言うべきです。「主よ、御心が行われます。これを罪のために受けます。」
日中、自分にたびたび唱えると良い小さな免償付きの祈りは次のようです。
一日の終わりには膝をついて、夜の祈りを唱えるべきです。
夜の祈りの後、ベッドに入るのにふさわしい慎みを守り;自分の心を死の思考で占め;自分が十字架の足元で休むとイメージして、十字架につけられた救い主に最後の思いを捧げるように努めるべきです。
付録
告白の祈り
全能の神、終生処女なる聖マリア、大天使聖ミカエル、洗礼者聖ヨハネ、使徒聖ペトロ、聖パウロ、および諸聖人にむけて、私は思いと言葉と行いとをもって多くの罪を犯したことを告白します。これが私の過ちなり、私の過ちなり、私のいと大きな過ちなり。これにより、終生処女なる聖マリア、大天使聖ミカエル、洗礼者聖ヨハネ、使徒聖ペトロ、聖パウロ、および諸聖人に、私のために私たちの主なる神に祈るようにをお願いします。アーメン。
信仰の行為
私の神よ、あなたを信じ、教会が教えるすべてのことを信じます。なぜなら、あなたはそのことを仰って、みことばは真実である。
希望の行為
私の神よ、恩寵と栄光のために、あなたの約束、憐れみ、力によって、あなたに希望をかけます。
愛徳の行為
私の神よ、あなたはとても善であるので、私は心を尽くしてあなたを愛しています。また、あなたのために、隣人を自分として愛しています。
痛悔の行為
私の神よ、あなたはとても善であるので、あなたに対して罪を犯したことを本当に後悔しています。あなたの恩寵の助けによって、もう罪を犯しません。
より長い痛悔の行為
私の神よ、私が犯したすべての罪のために謝罪し、赦しを請い、何よりもそれらを憎みます。なぜならそれらはあなたの恐ろしい処罰に値し、私の慈しみ深い救い主イエス・キリストを十字架につけ、そして何よりも、あなたの無限の善を怒らせるからです。私はあなたの恩寵の助けによって、もうあなたを怒らせないように、慎重に罪のきっかけを避けようと固く決意します。
聖なるロザリオ
五つの喜びの神秘
五つの苦しみの神秘
五つの栄えの神秘
神の賛美
お告げの祈り
マリアは聖霊によって神の御子を宿された。
アヴェ・マリア、云々
お言葉どおりになりますように。
アヴェ・マリア、云々
私たちのうちに住まわれた。
アヴェ・マリア、云々
先:神の母聖マリア、私たちのためにお祈りください
応:キリストの約束に敵う者となりますように。
祈願
神よ、御使いのお告げによって御子が人となられたことを知った私たちが、キリストの受難と十字架を通して復活の栄光に達することができるよう、恵みを注いでください。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。
アレルヤの祈り
復活節中に「お告げの祈り」の代わりに立ち唱え用。
先:乙女マリア、お喜びください。アレルヤ。
応:主はまことに復活されました。アレルヤ。
祈願
神よ、あなたは御子キリストの復活によって、世界に喜びをお与えになりました。キリストの母、乙女マリアによって、私たちも永遠の命の喜びを得ることができますように。アーメン。
元后憐れみの母
先:神の母聖マリア、私たちのためにお祈りください。
応:キリストの約束に敵う者となりますように。
メモラーレ
慈しみ深い乙女マリアよ、ご保護に寄りすがり、御助けを求め、あえて御取り次ぎを願う者は、一人として捨てられることが、昔から今に至るまで世に聞こえざるをお思いください。ああ処女の処女なる母、私はこれによって頼もしく思って馳せ来て、罪人の身をもってあなたのみもとに嘆きます。ああみことばの母、私の祈りを軽んじず、憐れみをたれてこれをお聞きください。これをお聞き入れください。アーメン。
マグニフィカト
私の魂は主を崇め、
私の霊は救い主である神により喜びおどる。
主が卑しいはしためを御目をとめられたから、
これからのち、代々の人々は私を幸いな女と呼ぶ。
全能者が私に偉大なことをされたから。
その御名は聖く、その憐れみは代々、敬い畏れる人々の上に。
その御腕の力を現し、傲る思いの人々を散らし、
権力者をその座から下ろし、低い人々を高められる。
飢えた人は良いもので満たし、富む人を空手で返される。
主はご慈悲を忘れず、しもべイスラエルを助けられた。
私たちの先祖に約束されたように、アブラハムの子孫に、いつまでも。
栄光は父と子と聖霊に。
初めのように、今もいつも世々に。アーメン。
デ・プロフンディス
先:主よ、永遠の安息を彼らに与えたまえ。
応:絶えざる光を彼らの上に照らしたまえ。
先:彼らは安らかに眠りますように。
応:アーメン。
先:主よ、私の祈りを聞きたまえ。
応:私の叫びをあなたに届けたまえ。
祈願
全信仰者の創造主、かつ贖い主である神よ、あなたの逝ったしもべたちの魂に、すべての罪の赦しを与えたまえ。彼らが絶えず望む赦しを私たちの信心深い祈りによって受けさせたまえ。あなたは世々に生き、君臨されます。アーメン。
朝の奉納
イエスよ、マリアの最も清い御心を通して、私は今日の祈り、わざ、苦しみを、あなたの神聖な御心のすべての意図のために捧げます。
願望
イエス、マリア、ヨセフよ、私の心と魂を差し上げます。
イエス、マリア、ヨセフよ、私を最後の苦しみにお助けください。
イエス、マリア、ヨセフよ、私は安らかに、かつあなたがたの至福なるみもとで死ぬことができますように。